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明治維新150年に寄せて

京都ノートルダム女子大非常勤講師 大喜直彦氏

2018年1月1日付 中外日報(論)

だいき・なおひこ氏=1960年、大阪府生まれ。龍谷大大学院文学研究科国史学専攻博士後期課程単位取得。文学博士。専門は日本社会史、日常生活史。著書に『中世びとの信仰社会史』(法藏館)、『神や仏に出会う時 中世びとの信仰と絆』(吉川弘文館)など。
動き出した時代~家茂初度上洛~

文久3(1863)年3月4日、14代将軍徳川家茂が、3代将軍家光以来、実に230年ぶりに上洛しました。目的は朝廷から攘夷実行の要請を求められたためでした。先がけて2月24日には、一橋慶喜が上洛して西本願寺を来訪します。広如宗主は殿中で慶喜に盃をすすめ、御堂・飛雲閣などを案内し、大奥へ招き入れ百花園で饗応したのです。慶喜とは「従来の御懇家(親しい間柄)」のため破格の扱いをしたのです。この時、慶喜から宗主・徳如新門・明如新々門へ土産として、唐物掛け軸・生鯛などが贈られています。

3月11日、家茂は孝明天皇による賀茂社への攘夷祈願行幸に供奉、4月3日には宗主・徳如新門・明如新々門が二条城に家茂上洛見舞いに出かけています。

傍観者ではいられない

明けて元治元(1864)年正月15日、将軍家茂が前年に続き上洛。目的は雄藩諸侯による国政参画の参予会議への列席でしたが、真意は西南雄藩で動く京都政局への牽制と幕府への主導権奪取でした。上洛した家茂は挨拶として、28日に宗主と新門・新々門へそれぞれ真綿30把ほかを贈っています。

このような中、京都池田屋事件の報が長州藩へ届くと、同藩は自重していた京都出兵を出陣へと舵を切りました。結果、蛤御門の変、元治の大火となるなど、京都は大きく揺れ始めました。この将軍上洛で諸大名らの動きは活発となり、京都の政局がにわかに動乱の様子を呈し、西本願寺もその中へ巻き込まれざるを得なくなったのです。

『広如上人芳績考』によると、蛤御門の変で敗走する長州兵数十名が西本願寺に逃げ込み堂内での切腹を希望。しかし宗主は毛利家との旧好を重んじ、死を思いとどまらせ、剃髪し僧侶に変装させ逃走させたとあります。このため元治元年8月23日、会津藩は兵を率い西本願寺へ迫りました。これは慶喜の仲裁で難を逃れましたが、同藩は寺内を探索、嫌疑ある家臣・僧侶数名を捕縛投獄したといいます。

慶応初年の政治状況

慶応元(1865)年2月5日、発言権を強めていた朝廷から家茂は、再三の上洛と攘夷決行を要請されました。この時期、京都は孝明天皇の攘夷を維持して、一橋慶喜(禁裏守衛総督)と会津松平容保(京都守護職)・桑名松平定敬(京都所司代)、通称「一会桑」により江戸から独立権力状態にあったのです。将軍はその中心である慶喜を連れ戻して「一会桑」を解体し、京都を幕府の意に従わせようともくろんでいました。

翌慶応2(1866)年、第二次長州征伐のため、閏5月22日の将軍家茂は3度目の上洛を遂げ、閏5月24日に大坂城に入りました。しかし体調が急変、7月20日、家茂は21歳の若さで病没したのです。慶喜は1カ月の間、家茂の死去を秘し、徳川宗家相続を画策、8月20日に死を発表するのでした。慶喜は将軍の代理として征伐に出陣し勝利して、有利な形で将軍職に就くつもりでしたが、現地での幕府軍敗北の報を受けると出陣を中止。そして12月、有利な立場に立てぬまま将軍に就任したのです。

苦慮する西本願寺

慶応3(1867)年10月14日、倒幕の密勅が下る寸前、慶喜は大政奉還を表明。薩摩・長州藩などは倒幕の機会を失い、朝廷では、慶喜の勢力を温存し新体制樹立を目指すグループと倒幕グループとが対立していました。しかし12月9日、倒幕派岩倉具視らが王政復古令を発布。これにより幕府廃止、摂政・関白廃止、参与設置などが決定され、新政権が誕生したのです。

京都でのトラブルを危惧した慶喜は、12日に大坂城へ移居。この微妙な立場に立った慶喜へ、見舞いを内々に贈れ、親しいとみられない手紙を書けとか、慶喜への対応を大坂津村別院へ命じた西本願寺の記録が最近発見され、話題となりました。

西本願寺にとって、対決姿勢を示す慶喜と親しい関係であると朝廷側から見られれば、今後、新政府との関係が不利になるかもしれない。また凋落したとはいえ、元将軍、これまでのように親しい関係を維持しておかなければ、依然勢力を保持する慶喜が巻き返した場合、旧幕府側よりどのような扱いを受けるかわからない。新史料からは、歴史の大きな流れの傍観者ではいられない、苦慮する西本願寺の姿が浮き彫りになりました。

西本願寺の選んだ道

慶応3年12月26日、新政府は西本願寺の勤王の志、門末の奮励を讃え、今後の戮力を仰せ付けました。27日、西本願寺は御用を承ること、即位大礼の用途調献を願いたい旨を返答。やがて慶応4(1868)年正月3日、戊辰戦争が起こると、西本願寺は総員僧俗約400名で御所の警備に当たりました。これを「猿ヶ辻警衛(守衛)」といいます。猿ヶ辻とは御所の東北角、鬼門に当たる築地塀(角が直角ではなく一部をへこませている)の場所をいいます。そして同年正月4日には、金3千両を献金します。そして以後も多額の献金をして新政府を支援しました。

ここに新たな夜明けを迎えつつある日本の中で、西本願寺のとるべき道は決まりました。以後、西本願寺は新政府とともに近代化の道を歩み、現在の基を築いていくのでした。