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第7回中日仏学会議に参加して

創価大教授 菅野博史氏

2018年1月17日付 中外日報(論)

かんの・ひろし氏=1952年、福島県生まれ。東京大文学部卒、文学博士。東方研究会の専任研究員を経て97年、創価大文学部教授。専攻は仏教学・中国仏教思想。著書に『法華経入門』(岩波書店)、『中国法華思想の研究』(春秋社)、『「法華玄義」入門』(第三文明社)など多数。

「第7回中日仏学会議」が昨年10月28、29日に、中国山東省煙台市で開催された。慈覚大師円仁がこの地を訪れたのは、唐朝の開成5(840)年であった。

中国人民大に2000年に創設された「仏教と宗教学理論研究所」は04年に「中日仏学会議」の開催をはじめた。今年は、日中国交回復45周年にあたり、いくつかの記念行事も開かれたが、5年前の40周年の時には、日中の政治的関係が悪化し、記念式典は行われなかった。私たちの中日仏学会議もちょうど第5回が予定されていたが、急遽取りやめとなった。その後、この会議の重要性に鑑み、中国、日本の双方の努力によって翌年開催された。これによって日中の仏教学術交流が再び継続され、今回の第7回を迎えることができた。

今回の総合テーマは「『般若経』と東アジア仏教」であり、日本と中国からそれぞれ5人の学者が研究発表をした。まず日本側の発表は、菅野「吉蔵『大品経玄意』の研究序説」、蓑輪顕量(東京大教授)「日本の三論宗について」、伊吹敦(東洋大教授)「初期禅宗と『般若経』」、渡辺章悟(東洋大教授)「『般若経』の意図するもの」、奥野光賢(駒澤大教授)「現代日本における中国三論宗の研究」であった。

中国側の発表は、董群(東南大教授)「吉蔵『金剛般若疏』研究」、周広栄(中国社会科学院世界宗教研究所研究員)「般若経典における梵語声字の形態と功徳に関する試論」、兪長海(西蔵民族大講師)「初章と三論宗思想の基盤」、烏達木(中央民族大講師)「トド文『八千頌般若経』について」、張文良(中国人民大教授)「中国華厳教学における般若系経典」である。

今回の会議は、合盧寺の後援を受けて開催された。煙台市福山区の南部の合盧山にある寺院で、唐朝の開元年間(713~741)に創建された古刹であるが、近代になって衰亡した。ところが、近年の中国仏教界の隆盛の波を受けて、2010年から重建が開始され、今も盛んに建設中である。私自身は、昨年の夏、この会議の準備のために訪れたことがあり、今回は2度目の訪問であった。

中国仏教史における『般若経』の受容は、支婁迦讖の『道行般若経』の漢訳に始まる。その後、朱士行(生没年未詳)は、洛陽において『道行般若経』(小品系)を講義していたが、訳文が簡略で、意義が十分に理解できなかった。彼は『般若経』を大乗の中心経典であると考え、どうしても、その完全な原典を中国にもたらそうと決意し、魏の甘露5(260)年に雍州を出発して于闐(コータン)に行った。朱士行は幸いに『放光般若経』(大品系)の原典を入手し、小乗仏教を奉じる者たちの妨害に遭いながらも、西晋の太康3(282)年、弟子にその原典を洛陽に持ち帰らせた。

洛陽では、元康元(291)年に無羅沙と竺叔蘭によって『放光般若経』として訳された。一方、竺法護(239~316)が同本異訳の『光讃般若経』を訳した(286年)。支道林(314~366)の『大小品対比要抄序』(『出三蔵記集』巻第八所収)は、大品系と小品系の『般若経』の思想的比較を試みたものである。

道安(312~385)は、安世高を尊敬し、彼の漢訳経典に注を執筆するとともに、『般若経』研究にも熱心で、いくつかの注を執筆した。残念ながら、『人本欲生経註』以外は現存していない。年2回の『放光般若経』講説を継続し、その異訳『光讃般若経』を得てからは、両者の比較研究を試みた。しかし、翻訳の質の問題に悩んでいた道安は、亀茲国の鳩摩羅什(344~413/350~409)を中国に招聘することを前秦王の苻堅(357~385在位)に提案した。

鳩摩羅什は紆余曲折を経ながらも、後秦の姚興(393~416在位)によって、弘始3(401)年に長安に迎えられた。彼は改めて『大品般若経』『小品般若経』を漢訳した(後に、玄奘が改めて『大般若経』600巻を訳したが、言うまでもなくこれらの大品系、小品系を含む)。また、インドの中観派の著作、『中論』『十二門論』『百論』の3論を翻訳し、『大品般若経』の注釈書である『大智度論』をも漢訳した。このような『般若経』の受容にともない、また鳩摩羅什の弟子の僧肇(384~414?)の活躍もあり、老荘思想の無の思想とも一脈通じると考えられた空と般若の教学が盛んになった。

一方、鳩摩羅什の弟子から、中国仏教の大きな特色の一つである教判が形成されはじめたが、その代表者である慧観(生没年未詳)は頓漸五時教判を形成したといわれる。これによれば、漸教の五時のなかで、『大品般若経』は第二時の三乗通教、声聞のための教えと低く位置づけられた。

この頃、法顕(339?~420?)訳の『六巻泥洹経』や曇無讖(385~433)訳の『北本涅槃経』40巻が中国にもたらされた。仏性の普遍性と仏身の常住を説く『涅槃経』の思想は、現実世界の積極的肯定を好む中国人にはより親密感を持って受け容れられたのか、『般若経』の真空の思想から『涅槃経』に代表される妙有の思想への漸進的な転換が進んでいったように思われる。

その後、『般若経』と『涅槃経』に代表される空と有の対論をめぐって、梁代の『涅槃経』の隆盛と僧朗(生没年未詳)、僧詮(生没年未詳)、法朗(507~581)を継承して吉蔵(549~623)が大成した三論学派の形成があった。

平井俊榮氏の研究によれば、吉蔵の『涅槃経遊意』には、僧詮が僧朗にしたがって、三論、『大品般若経』を講義したが、『涅槃経』『法華経』については講義をしなかったこと、弟子たちが『涅槃経』の講義を要請したが、僧詮は弟子たちがすでに『般若経』を理解しているのであるから、改めて『涅槃経』を講義する必要がないと断ったこと、弟子たちが重ねて要請したために、「本有今無偈」のみについて講義したこと、法朗がはじめて『涅槃経』を大いに弘めたことが示されている。さらに、吉蔵『大般涅槃経疏』(現存しないが、平井氏によって逸文が整理された)には、僧詮が『涅槃経』を講義しなかった理由は、自分の寿命の尽きることを自覚しており、大部な『涅槃経』を講義し終える時間的余裕がなかったからであったことが記されている。

一方、法朗は僧詮に『涅槃経』について個人的に質問し、その大意について口頭で指導を受けたが、この事実については他の弟子は知らなかったようである。法朗に『涅槃経』の注釈書があったことは、『続高僧伝』法朗伝にも触れられておらず、吉蔵自身もこの疏の存在については何も述べていないけれども、平井氏は、灌頂(561~632)の『大般涅槃経疏』に法朗の説が最も多く引用されることを明かし、法朗に『涅槃経疏』があったと推定している。

吉蔵は、『涅槃経遊意』において、「無所得」は『涅槃経』の宗(根本思想)であるばかりでなく、すべての大乗の正意であることを強調している。「無所得」といえば、『大品般若経』の宗ともいわれるものであるから、吉蔵は明確に『般若経』と『涅槃経』の思想を統合する狙いを持っていたと思われる。

従来、吉蔵思想の研究は、『三論玄義』『中観論疏』『十二門論疏』『百論疏』『大乗玄論』などによって行われ、必ずしも吉蔵の経典注釈疏の研究は盛んでなかった。筆者は吉蔵の法華経疏の研究に力を注いできたが、近年は『涅槃経遊意』や『大品経玄意』の研究にも取り組んでいる。今回の会議で、筆者が『大品経玄意』、董群氏が『金剛般若疏』をそれぞれ扱ったが、『仁王般若経疏』も含めて、吉蔵の三種の般若経疏の研究はあまりなされてこなかった。今後の大きな課題であると思う。