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長谷・小谷先生への反論

浄土真宗本願寺派光教寺住職 入井善樹氏

2018年2月2日付 中外日報(論)

いりい・よしき氏=1943年生まれ。高松市の浄土真宗本願寺派光教寺住職。65年、龍谷大卒、伝道院修了。作陶を志し、73年、自業苦焼の業苦落窯を開く。77年、日本で最初の「テレホン法話」を開設。2000年、高松市仏教会会長。著書に『てれほん人生講話』(潮文社)、『親鸞聖人の現場の教学』(法藏館)など。

中外日報の昨年11月8日付で京都大学名誉教授・長谷正當氏の「『現生往生』は『現世往生』ではない」の論述が記載された。内容は、大谷大学名誉教授・小谷信千代氏が、すでに出版された著述の中で曽我量深氏の「現世往生説」を批判されたことに対しての反論である。その後、11月24日付で小谷氏から長谷氏に反論が記述された。「往生は現世か死後か」の問題は、1990年7月21日の毎日新聞記載で『岩波仏教辞典』事件が起こり、監修の中村元氏の「極楽浄土にいつ生まれるのか?」(『東方』、東方学院、1990年12月発行)で、筆者は「橫超の信心」から論証して、解決済みと考えていた。

筆者は、大谷派の曽我量深氏・金子大榮氏という双璧が、「往生はこの世にあり、成仏はあの世にあり」という見解だと理解してきた。ところが、これには一筋縄では説明できない問題があったようだ。現生往生・成仏説を主張する学者たちは、例えば鈴木大拙氏(『浄土論』)や星野元豊氏(『親鸞と浄土』、三一書房。95ページ)は一様に「横超の信心」で論証されている。ところが、現生成仏の否定論者の見解は、「橫超」喪失なのだ。そこでまず「橫超」から学んで、両者の議論が空論となっていることを指摘したい。「橫超の信心」とは信心の事例であって、肉体の事例ではないと銘記して、親鸞の『唯信鈔文意』に書かれた「橫超の信心」を学ぶ。

①この一心は横超の信心なり。横はよこさまという、超はこえてという、よろずの法にすぐれて、すみやかに疾く生死海をこえて仏果にいたるがゆえに超と申すなり。……これは『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を世親菩薩は、願作仏心とのたまえり。この信楽は仏にならんとねがうと申すこころなり。この願作仏心はすなわち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなわち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなわち大菩提心なり。大慈大悲心なり。この信心すなわち仏性なり、すなわち如来なり。(『唯信鈔文意』、本派注釈聖典711ページ。大派聖典555ページ)

②横はよこさまにというなり、超はこえてというなり。これは仏の大願業力の船に乗じぬれば、生死の大海をよこさまにこえて真実報土の岸につくなり。(『一念多念文意』、本派680ページ。大派536ページ)

③二つに横超  選択本願・真実報土・即得往生なり。(『愚禿鈔』、『聖典』本派502ページ。大派424ページ)

①では「横超の信心」は、「横」は「生死海をこえて」という。これは②の「真実報土の岸につく」というから、浄土往生の意味となる。「超」は「仏果にいたるがゆえに超と申すなり」と、成仏完了だと言明される。この「橫超の信心」は「『大経』の三信心」と説明するから、現在只今の信心の成仏であって、決して死後ではない。「この信心すなわち仏性なり、すなわち如来なり」(『涅槃経』)と成仏完了という。③の『愚禿鈔』から「横超」と「即得往生」は同義語となる。すると、「即得往生」も信心の事例であって「身」の事例でない。そして、「度衆生心」は還相の心と理解でき、人をして「無上涅槃」に到らせるという。「無上涅槃」とは「弥陀の妙果をば、号して無上涅槃という」(『真仏土巻』、『聖典』本派369ページ、大派321ページ)から、人をしてアミダ仏にまで高める信心だとなり、成仏完了でなければ不可能だろう。『信巻』では、「横超とは、これすなわち願力回向の信楽、これ願作仏心という。願作仏心すなわちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり」(『聖典』本派246ページ。大派237ページ)と、ここでも信心が橫超すると説かれる。

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鈴木・星野両氏は、「身」の橫超を論証しようとしたために、親鸞が「身は悪人」といわれたことでつまずき、苦肉の策で鈴木氏は「非連続の連続」といい、星野氏は「逆転的回転」というパラドックスに陥り、利他行までの説明ができなかった。親鸞が「橫超の信心」というから、文面通りに信心成仏と理解すれば良かった。詳しくは拙著『ふかまる橫超』(18ページ、国書刊行会発行)をご参照ください。

現生の信心が成仏完了するとは、『観経』でも「是の心、仏となる。この心、これ仏なり」と明言される。『信巻』には、この『観経』文の解釈である曇鸞釈と善導釈が引用される。源信も『往生要集』(『聖典』七祖編、本派1075ページ)に曇鸞釈を引用されるから、信心の現生成仏論者だった。親鸞は『浄土文類聚鈔』では「この心」を信心で説明され、「この心、作仏す。この心これ仏なり。これを如実修行相応(浄土論)と名づくるなり、知るべし」(『聖典』本派494ページ。大派419ページ)と断言されるから、信心の現生成仏は間違いない。しかも、この文の帰結で「如実修行相応」というから、アミダ仏と同じ利他行が実働する信心の教示でもある。「如実修行」文は『信巻』の「信楽釈」の最後にも、「『論の註』にいわく、如実修行相応と名づく。このゆえに論主、建めに我一心とのたまえり」(『聖典』本派240ページ。大派232ページ)と説き、『曇鸞和讃』には「如実修行相応は/信心ひとつにさだめたり」(『聖典』本派587ページ。大派494ページ)と謳われた。つまり、「橫超の信心」は如来同等の苦悩者への利他行が、実働する信心へと導こうとしているのである。この信心に「わが身」の煩悩は「雲霧」となって邪魔するとき、「わが身」は悪人だったという宗教的自覚が初めて自然に生まれる教えなのだ。

そして、次にわが身の煩悩の邪魔を押さえるために、「自然法爾」とか「無義為義」の「おまかせ」が初めて要求された。これは、『尊号真像銘文』の最後に明確で「このこころをえつれば、他力には義のなきをもつて義とすと、本師聖人(源空)の仰せごとなり」(『聖典』本派673ページ。大派532ページ)という。「このこころをえつれば」とは「橫超の信心」を得たならばという。「義の無きをもって義と為す」といえば、煩悩の「自力」を捨てて「おまかせせよ」という要求であり、これは「恋をすれば、万里の道を厭わない」という、煩悩力を利他行に振り向けようという企画なのだ。

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『涅槃経』に「大信心は仏性なり、如来なり」と説かれ、親鸞は何度も引用するから信心の成仏完了は間違いない。『信巻』の最初の文で「大信釈」が説かれる。つまり、「大信心は如来なり」と学ばせるから、『信巻』全体で人間側の信心が、ブッダになって行くことを信じさせようとしているのだろう。すると、信者はアミダ仏と同じ証(さとり)の「如来にひとし」となって、利他行に命懸けになる深信が構築され、その実働が顕現しなければいけなかった。

長谷氏は「現生往生」と「現世往生」を区別された。筆者の考えは「現生往生」は「橫超の信心」の往生といえる。その理由は、「現生十種の益」で「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲」(『信巻』、『聖典』本派251ページ。大派241ページ)というからである。「五趣八難」を「橫超」したといえば、信心がこの世を超えて浄土往生したと、信心の事例である。「現世往生」は「現世利益」には含まれないし、浄土に生まれて「正定聚」となるから、当然、正定聚も『現世利益和讃』には説かれない。すると、「現生利益」は信心が浄土往生して、浄土の中の利益すべてを受けたという意味になる。つまり、ブッダにもなった利益ということだから、たとえば「冥衆護持の益」は信心が冥衆となって苦悩者を救うという解釈でなければいけなくなろう。深信者は「諸仏にひとし」というから、念仏する苦悩者を百重千重に囲って、助けてあげるという教示だと受け止めなければいけなかっただろう。これが、大乗仏教の念仏者の利他行の完成といえる。

しかし、「身」が往生・成仏したのではなく、『正信偈』には「煩悩を断ぜずして、涅槃を得る」といい、身の煩悩が真実信心の実働を「雲霧」となって邪魔をする。しかし、涅槃に入った真実信心を日光に譬えると、雲霧の下に闇なきがごとしといい、わずかでも必ず苦悩者にブッダとしての利他行が届けられる。届けられないなら、それは信心がないということになる。ここで、わが身が初めて、本願を毀棄するほどの「悪人」と目覚め深信するのだ。「身」には往生も成仏も起こってはいない悪人だが、信心が成仏して身に呼びかけるから、「汚泥の白蓮」だと讃えられただろう。しかも善導が述べるには、信者はアミダ仏に似てくるという。

「深信するもの、仰ぎ願わくば一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたもうをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたもうをばすなわち行ず。仏の去らしめたもうところをばすなわち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく」(『聖典』本派218ページ。大派216ページ)というから、還相の信心はアミダ仏同等の利他行を生起し、信者の身に呼びかけるのである。

ところで、伝統教学がいう死後成仏では、親鸞が「諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり」(『聖典』本派381ページ。大派331ページ)と嫌われた。「欣慕浄土の善根」とは、いまだ往生しておらず、浄土を願い慕う死後の浄土への善根だと、全く利他行は生まれないと一蹴されたのである。親鸞は「橫超」を「大乗中の大乗」といい、「如来にひとし」の「正定聚」に入ったと、菩薩の最高位だからそれに見合う実践が起こらなければいけないという。長谷・小谷両先生におかれましても「橫超の信心」を学んで頂き、余生一杯に大乗の利他行に邁進して頂きたく一筆啓上いたしました。ご海容の程を……。