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近代の社会事業と神社神道

國學院大准教授 藤本頼生氏

2018年2月14日付 中外日報(論)

ふじもと・よりお氏=1974年生まれ。國學院大大学院文学研究科神道学専攻博士課程修了。博士(神道学)。國學院大神道文化学科准教授。専攻は、神道と福祉、神道教化論、宗教行政学。主な著書に『神道と社会事業の近代史』『神社と神様がよ~くわかる本』など。

近年、宗教学の立場から国家神道、宗教とナショナリズムをめぐっての論議が盛んである。筆者は、これまで「神道と福祉」との関係性について研究を進めてきたが、その研究の起点となったのは、近代の神道史である。ゆえに近代において神社や神職が関わった社会事業などを明らかにすることは、従来とは異なった視点から近代日本の宗教をうかがうことにもつながる。そこで、本紙「論」欄の執筆に際して、筆者の専門とする近代以降の社会事業と神社・神職との関わりの一端を述べることで、近年のいわゆる「国家神道」をめぐる論議の一助としたい。

地域の神職が主唱 職業紹介所を設置

かつて、社会福祉学の河畠修は「日本固有の宗教、神道にあっては、福祉活動との関連は少ない」(『福祉文化論』)と述べたが、拙著にも記したように、近代以降の神道史をたどってみれば、その指摘が一面的な見方に過ぎないことは明らかである。例えば、近代民間社会事業史の上では、監獄改良や免囚保護、感化院の設立などにおいて宗教者の役割が大きかったことが指摘されているが、明治初期における宗教教誨事業への神職の参画は、明治5年の真宗大谷派の啓凛、對岳の開始より1年後の明治6年にさかのぼる。教誨に関連していえば、市ヶ谷にあった東京監獄や、巣鴨監獄には、構内に稲荷社が鎮座していたことが知られる。

また、かつての教護院にあたる児童自立支援施設についても、その嚆矢は明治17年に設立された神道大成教の池上雪枝の感化院であるが、明治18年には伊勢の神宮の教化団体ともいうべき神宮教がスポンサーとなって、「神宮教院感化院」と称する感化院を東京本郷に設立・運営したことが知られている。さらには、岡山県の美作社会協会のように、大正期に美作地域周辺の神社の神職が主唱者となり、僧侶や教派神道の教師らの協力を得て、神社・寺院・教会の施設の一部を利用して社会的弱者の宿泊施設や職業紹介所を設置して、救済活動を行おうとした事例もある。加えて現在の民生委員にあたる済世顧問制度、方面委員についても各府県で神職が数多く選任されていたという事実や、愛媛県の合田正良宗像神社宮司のように、神職が中心となって組織を結成し、昭和18年に県立新居浜家庭寮(のちの愛媛県立えひめ学園)を設置、その寮長として施設運営にも尽力、戦後は、戦争で夫を失った女性のために授産所や職業訓練所、保育所の設置に力を尽くしたような事例もある。

国の神社中心主義 境内開放論を否定

しかしながら、大原社会問題研究所が戦前発行した『日本社会事業年鑑』の分類に基づけば、当時の神社のなせる社会事業としては、日曜学校ほか児童教化事業、青年会および処女会、婦人会および戸主会、図書館、娯楽施設、免囚保護、社会教育的施設、と捉えられており、いまの社会福祉活動の概念につながる社会事業というよりも、現在でいうところの社会教育、社会教化活動という側面が見受けられ、神社に適当とすべき社会事業が、必ずしも社会事業の全体をカバーするもの、あるいはメインストリームにあたるものではないと考えられよう。それゆえに大正期には、神社の社会事業が、いかにあるべきかという点を考えるために、神社局主導によって全国の官国幣社の神職を招致して「神社の社会事業懇談会」なる座談会が開催されたほか、神社局第一課長(のちに神社局長、皇典講究所専務理事)を務めた吉田茂が「神社と社会事業」を著したほか、各地の神社の社会事業を掲げた「神社を中心とせる社会施設」が『神社協会雑誌』に連載されるなどし、この時期に同種の論考が同誌や『皇国』誌などに数多く掲載されている。その後、官制で設置された神社制度調査会においても、昭和8年11月の第35・36回特別委員会にて神社の社会事業が議論されたという経緯もある。

加えて大正期には、日枝神社(東京)のように、境内が公園地となっていた例も多く見られたことから、一部の民社神職から、神社境内を小公園とし、幼稚園を設置して児童の遊戯遊歩場となすべきという神社境内開放論、公園敷地とその管理経営の方途が説かれていたことは、現在の待機児童の保育問題に通じるものであるといえよう。これに対して内務省神社局は、当時の佐上信一局長が児童の遊技・運動場、図書館のような形での境内開放は、一見適当なようで適当ではなく、あくまで神社は崇敬・祈願、奉告を通じて地域の精神的団結を図る地方自治の開発を図る場とし、自治思想の一端である公共的精神を養う場とする「神社中心主義」的な考え方を説いて境内開放論を一蹴している。

一方、東京市においては、大正12年9月に発生した関東大震災の復興問題との兼ね合いで、無料宿泊所や託児所などの設置をめぐって東京市社会局と東京府神職会との間にて教化公益に関する施設としての神社のあり方について交渉がなされ、神社をより社会救済の場として、施設を開放すべく調査、議論を進めていたことも知られている。なお、この時期は靖國神社境内や明治神宮外苑を罹災者救済のための仮設住宅の用地として開放した時期とも重なる。また、前出の吉田茂は、社会局長官や協調会常務理事を務め、労働争議問題にも尽力した人物であるが、明治末からの地方改良運動に伴って実施された神社整理施策を主導した水野錬太郎、井上友一両神社局長や、前出の佐上信一のような考え方とはやや異なり、農業振興という形で神社の性質に合致した形での地方改良、農村改良策を推し進めた。その施策の一つとして実施された新穀感謝祭が、現在も明治神宮や伊勢神宮にて開催されていることは、社会政策史の上でも興味深いものがある。

民間の宗教施設の社会的役割を問う

以上、わずかではあるが戦前期の神社・神職と社会事業の関わりの一端を述べた。神道、神社がそもそも宗教か、非宗教かという論議は、戦前からなされているところであり、その結論は別としても、社会事業という視点から近代以降の神社神道を見る場合、神社・神職が「神社中心主義」と呼ばれるような内務官僚が考えた地方自治の改善利用のための道徳的施設やその管理者、つまり、形式的な人民大衆とは無縁かつ無味乾燥なものではなく、少なからず社会救済のために尽力していた事実があることだけは指摘しておきたい。近年の国家神道に関わる論議では、皇室や教育をも絡めてシステム的に近代の神社神道を説こうとする向きも強いが、ぜひ地域の神社・神職が人々の救済のために尽力していた歴史的事実、経緯をも踏まえ議論いただければと思う。

「神道とは万人と仕合わせを分かちあうことに歓びを求める生き方のことである」とは、神社本庁総長を務めた櫻井勝之進の言であるが、英語で「福祉」を意味する(welfare)とは、まさに幸せを享受する意で、福も祉も幸せを意味する語である。無論、神社神道は祭りを通じて個々の地域の安寧を祈ることが中心であり、個人救済を主に説こうとするものでないことは言うまでもない。とはいえども、今後さらに進む少子高齢化社会のなかで神社・神職のなす福祉活動というものを考えるならば、神社神道にとって、そもそも「救いとは何か」という概念規定を近代の神社の社会事業の歩みを踏まえつつ、検討し直すべき時期にあるのかもしれない。

昨今、民間セクターに公共領域を担わせるような状況も増加するなかで、先の東日本大震災の発生時には、多くの神社・寺院が避難所としての役割を果たした。このことに象徴されるように、民間の宗教文化施設たる神社、寺院の社会的役割、あり方がまさに問われている。無論、政教分離との兼ね合いもあるが、より高次の公共概念から宗教の社会的貢献や公益性という観点に立って考えるならば、近代以降の神社のみならず、寺院を含めた宗教施設、宗教者の社会的活動の一つひとつに、現代の地域コミュニティの問題を解決するヒントが隠されているものと考えている。