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「明治仏教」研究事始め

龍谷大教授 中西直樹氏

2018年2月28日付 中外日報(論)

なかにし・なおき氏=1961年生まれ。龍谷大文学部大学院修士課程修了。京都女子大事務職員、筑紫女学園大准教授を経て、2013年から龍谷大文学部教授。著書に『仏教と医療・福祉の近代史』『仏教海外開教史の研究』『植民地台湾と日本仏教』『近代西本願寺を支えた在家信者―評伝 松田甚左衛門』など。

平成30年は明治維新から150年目にあたる。仏教界でも関連出版物の刊行がいくつか企画されているようである。ところで、明治仏教に関する調査・研究は、いつごろから始められ、どのように進められてきたのであろうか。その戦前の歩みを、東西本願寺の修史事業を中心に少しまとめてみよう。

雑誌『佛教』「明治佛教史料」

明治仏教の史料や記録を残そうという試みは、かなり早い時期から意識されていたようである。筆者の知る限りでは、仏教学会発行の雑誌『佛教』の「明治佛教史料」欄が、その最も早いものではないかと思う。

雑誌『佛教』は、97号(明治27年12月)に掲載した「投書募集」で「明治佛教史料」欄を新たに設けることを予告し、明治仏教の歴史的事実を明らかにするため、各宗派の運動、諸高僧碩徳の伝記逸事に関する記事を寄稿するように呼びかけた。

この呼びかけに応じて、「明治佛教史料」は、98号(明治28年1月)から103号(同年6月)まで連載された。そのなかには、大内青巒「教部省及教導職の起源」、前田慧雲「本願寺勤王事績」、南条文雄「笠原南条在英中の事業」など、貴重な記録が含まれている。

明治の本願寺史編纂所

昭和31年、親鸞七〇〇回遠忌法要を目前にひかえ、第23代勝如宗主(1911~2002)の発起により本願寺史編纂所が設置された。編纂所は、42年に本願寺史料研究所となり現在に至っている。しかし、それより50年前の六五〇回遠忌法要の際にも本願寺史編纂事業が計画されていた。

明治の本願寺史編纂は、明治44年10月に龍谷大学図書館内に事務室が開設されてスタートした。同年12月、編纂事業は執行所枢密課の所管とすることが達せられている。

翌年1月発行の『教海一瀾』(『本願寺新報』の前身紙)は、本願寺史編纂の事業を開始することを広告し、編纂部員が史料蒐集のため出張した際は協力することを門末に求めた。編集部員は、脇谷撝謙、鷲尾教導らが就任し、各地を巡回して史料を蒐集したようである。45年7月発行の『教海一瀾』に「本願寺史編纂概況」が報告され、蒐集した史料の一覧が記載されている。これら史料は、現在も龍谷大学大宮図書館に所蔵されている。

しかし、当時の龍谷大学は、『仏教大辞彙』(全3巻)という辞書編纂の大事業も並行させており、本願寺史を編纂するまでに至らなかった。ただ、明治45年7月に明治天皇が死去したため、翌年『先帝と本願寺』が興教書院から刊行された。この書の奥書には、興教書院編輯部の編纂と記載されているが、巻頭の「例言」は「本願寺史編纂所にて、脇谷、鷲尾、西谷生しるす」とある。明治天皇と西本願寺との関係史が詳述されており、編纂所で蒐集した史料が活用されたようである。

なお、大正元年には『先帝と東本願寺』も法藏館より刊行されている。こちらも、明治天皇と東本願寺との関係が編年体で書かれている。『先帝と本願寺』と『先帝と東本願寺』とは明治期の東西本願寺の歴史を知る上で貴重な史料である。ちなみに、六五〇回遠忌法要の際には、『専修寺史要』(高田派専修寺遠忌法務院文書部、明治45年)が刊行されている。この書は小冊子ながら、近代における寺史編纂のなかでも、先駆的事例であろう。

『明如上人伝』

西本願寺の本願寺史編纂は実現しなかったが、昭和元年7月、第21代明如宗主(1850~1903)の二五回忌を迎えるにあたって明如上人伝記編纂所が設置された。前田慧雲が所長に就任し、情報の提供を呼びかけて各方面から史料が寄せられ、編集作業がスタートした。

翌年の『明如上人伝』刊行までわずか1年足らずの編集作業であったが、千ページをこえる大部のもので、明治期の西本願寺の動向を全体的に把握するための基本的文献となっている。

『大谷派近代年表』

一方、東本願寺の宗史編纂の契機も六五〇回遠忌法要であった。明治40年、遠忌記念事業として真宗大学(現大谷大)に宗史研究会が設置され、同大学の教職員・研究院生らが史料蒐集と研究活動に着手している。

大正13年には、『大谷派近代年表』が大谷派本願寺編纂課から刊行された。この年表は、侍董寮出勤の学師であった水谷寿と横田満との共著であった。侍董寮は、六五〇回遠忌法要の際に設置された宗義の研究機関である。本書巻末に加藤智学(侍董寮主事)が寄せた一文には、水谷と横田とは、明治維新前後の宗門史料を入手することが困難であることを遺憾に思い年表を作成したとある。後にこの年表は、真宗教学研究所によって改訂され、昭和52年に『近代大谷派年表』として刊行された。

東本願寺宗史編纂所

『大谷派近代年表』刊行の3年後の昭和2年7月、宗史調査・研究のための常設施設として宗史編修所が大谷大学に設置された。このときのスタッフには、一柳知良教学部長が所長を兼務したのをはじめ、事務主任に圓山千之、書記に網田義雄が配属された。また編修員には日下無倫、可西大秀、水谷寿らがいた。

昭和に入ると明治仏教の研究に対する機運も高まった。昭和元年には、村上専精・辻善之助・鷲尾順敬が『明治維新神仏分離史料』を東方書院より刊行した。辻は、4年に東京帝国大学史料編纂所の初代所長に就任し、7年には『慈善救済史料』を金港堂書籍から刊行している。

仏教雑誌も明治仏教特集を企画し、5年8月に『龍谷大学論叢』が明治仏教研究特集号を出し、8年7月には『現代仏教』(現代仏教社)が創刊10周年を記念して明治仏教の研究・回顧特輯号を発行した。

昭和7年10月から9年4月にかけて、大谷派の機関誌『真宗』に、水谷寿の「明治維新以後に於ける大谷派宗政の変遷」が連載された。明治期の東本願寺の動向を知る上で貴重な資料であり、近く法藏館より刊行される『明治前期の真宗大谷派教団(仮題)』に収録を予定している。

同年11月には『宗史編修所報』が創刊され、活発な調査・研究活動が続けられた。昭和12年に宗史編修所は消滅し、その事業は宗学院に継承された。『宗史編修所報』も、翌年3月発行の18号から『宗学院編修部報』と改題され、16年6月発行の28号まで刊行された。また14年から18年にかけて、『東本願寺史料』4巻を刊行したのは、東本願寺の宗史編纂所の大きな成果である。

しかし、明治元年までの史料掲載にとどまり、近代に関する史料集は刊行されなかった。また、宗史を叙述した本編についても刊行されないまま、宗史編纂事業は戦争により中断した。

明治仏教史編纂所

明治仏教の調査・研究機関として、忘れてはならないのが明治仏教史編纂所であろう。

昭和7年秋頃、友松圓諦らが中心となり明治仏教史編纂準備会が設置され、翌年3月1日には、東京銀座の菊池ビル3階に明治仏教史編纂所が開設された。当時、明治初年から仏教界で活躍した人物が次々に世を去り、貴重な史料が散逸していくなかで、関係史料と記録を保存していくことの必要性が強く認識されていた。

明治仏教史編纂所は、宗派を超えて史料提供と情報交換を呼びかけ、全国の都市に明治仏教談話会を開催するなど、明治仏教研究の先導的役割を果たした。昭和9年頃に明治仏教談話会事務所は、東京のほか、京都・名古屋・福島・大阪・浜松・神戸・豊橋・福島県白河町・宇都宮・長野・仙台・高崎などに設置されていた。

こうした活動を通じて蒐集された膨大な関係史料の一覧は、『明治年間仏教関係新聞雑誌目録』(昭和9年)、『明治仏教史編纂所蔵目録』(同47年)に記載されている。現在、その史料は慶應義塾大学附属斯道文庫に寄託されている。

雑誌『明治仏教』

雑誌『明治仏教』は、明治仏教史編纂所付置の研究組織である明治仏教研究会の機関誌として昭和9年8月に創刊された。12年3月発行の通巻28号までの存在を確認できる。しかし、戦時下に事業が頓挫してその存在は忘れ去られ、今日、近代仏教史を研究する者でも『明治仏教』を知る者は少ない。

若干の欠号があるものの、そのほとんどを蒐集することができたため、近く不二出版より復刻する予定である。明治仏教研究振興の一助になればと考えている。