ニュース画像
二王門(写真奥)を通り吉田執行長の先導で入山式に向かう瀬川門跡
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

近代仏教史における神智学

舞鶴工業高等専門学校教授 吉永進一氏

2018年4月4日付 中外日報(論)

よしなが・しんいち氏=国立舞鶴工業高等専門学校教授。専門は宗教学。1957年、静岡県清水市生まれ。京都大文学部大学院修了(宗教学)。95年から現職。著書に『近代仏教スタディーズ』(共著)など。

神智学というと、その創始者であるロシア人女性ヘレナ・P・ブラヴァツキー(1831~91)が、大ヒットしたスマホゲームのキャラクターとして、あるいは宝塚版「ポーの一族」の登場人物として今では有名だそうである。それは結構なことだとしても、神智学協会が、交霊会や魔術を行う団体と同一視されている気がしないでもない。

神智学協会は三つの目的を掲げており、それらの一つには人間の潜在力の研究が挙げられてはいる。しかし、他の二つは、人種、信条、性別を越えた同胞愛の追求と、さまざまな宗教、哲学、科学の比較研究であり、実際、神智学協会の主たる活動は東洋宗教や神秘主義の学習会であった。オカルティズム的な世界観を前提とする、他宗教との交流のプラットフォームといった方が実情に近いかもしれない。

神智学協会は1875年、ニューヨークで、ブラヴァツキーとヘンリー・S・オルコット(1832~1907)を中心に設立された。1879年に創立者二人はインドに移り、その後、チェンナイ郊外のアディヤールに本部を構えると、急速にインド、ヨーロッパ、アメリカなどにロッジ(集会所)を増やしている。書簡と電信によって世界的なネットワークを築き、知識人、法律家、芸術家などが多く参加したことで、会員数に比べると社会的な影響力は大きいものがあった。

近年、神智学の学問的研究は進んでいる。宗教学では神智学を含めた西洋の秘教思想史研究全体が盛んになり、芸術学や文学研究では近代文化における神智学の影響が注目されている。また、政治学や南アジアの地域研究でも重要なテーマとなりつつある。

しかし、かつてはシリアスな研究対象ではないとされてきた。その理由の一つに東洋学者からの批判がある。マックス・ミュラーは、神智学は秘密仏教と称しているが、そんなものは存在しない、ブラヴァツキーのように原典も読めない素人には仏教はわからないと辛辣に批判している。

ただし、東洋学の批判対象は、現実のアジア仏教にも及んでおり、ミュラーは日本の阿弥陀信仰を堕落したものと批判し、日本が正しい仏教に戻るよう、余計なアドバイスを与えている。東洋学も神智学も、いわゆるオリエンタリズム的な偏見から脱することはできなかったかもしれないが、東洋学の独善性と比べれば、神智学は主体的、実践的な関心をもって、より開かれた態度で東洋宗教に接したことは大きな違いである。

これは仏教に限らない。神智学は、西洋社会における数少ない東洋宗教への入り口であった。東洋宗教は神智学を突破口として次第に受容されていき、それと同時に、西洋社会へ適応するために変容していった。禅、カバラ、ヨーガ、スーフィーなどが世界的に広まるに至ったのは神智学が介在していなければ不可能であったろう。

神智学と仏教の近代化も、ここ20年ほど研究されるようになっている。地域ごとに先行研究の例を挙げてみると、まずスリランカについての研究がある。スリランカでの神智学の功績は特に大きく、神智学協会会長のオルコット、その弟子ダルマパーラ(1864~1933)は、スリランカの仏教を復興させただけでなく、プロテスタンティズム的な倫理を織り込んで近代化させることに成功した。

この点についてはゴンブリッチ、オベーセーカラの古典的名著『スリランカの仏教』(法藏館、2002)がある。さらに杉本良男(国立民博)が精力的に神智学研究を進めており、杉本の編集した『国立民族学博物館研究報告』40巻2号(2015)は、カルムイク仏教からチベット仏教までを視野に収めた意欲的な内容となっている。

日本では事情が異なり、神智学の影響は表面的には1889(明治22)年のオルコット来日を頂点とする短期的なものではあったが、仏教復興を可視化させたことと、後世へとつながる国際化の種が蒔かれたことは重要な成果であった。これについては、佐藤哲朗『大アジア思想活劇』(サンガ、2008)がオルコットの日本招聘に活躍した野口善四郎を狂言回しに、オルコット来日とその後の日本とアジア仏教の交流を描き出し、奥山直司(高野山大学)は「ランカーの八僧」(2004)以降、神智学と関わることの多い明治期の仏教留学生や海外渡航僧に関する詳細な研究を進めている。

また神智学との接触を契機に開始された、日本仏教の最初の国際化の試み(最初の英字仏教紙The Bijou of Asiaの創刊、欧米での宣教活動)については、中西直樹・吉永進一『仏教国際ネットワークの源流―海外宣教会(1888年~1893年)の光と影―』(三人社、2015)がある。ロンドンでの宣教というグローバルな動きと、九州におけるローカルな仏教運動という、二つの視点から近代史の一側面を描き出した研究である。

アメリカについては、トマス・ツイードが、アメリカ人仏教シンパたち(その多くが神智学徒)を中心に据えてアメリカ仏教史を叙述した。従来、仏教専門家の歴史として語られてきた仏教史を、素人の仏教シンパを含めた、いわば民衆宗教的な視点から語り直したことは大きな転換であった。その主要な論考「秘教主義者、合理主義者、ロマン主義者」は、デヴィッド・マクマハン「仏教モダニズム」とともに末木他編『ブッダの変貌』(法藏館、2014)に抄訳されている。マクマハンの論考は、ツイードの研究がビクトリア朝のアメリカに限定されていたのに対して、現代の「仏教モダニズム」という、新たな形態の仏教(個人志向、瞑想重視など)の成立を論じたもので、そこにも神智学の影響は色濃い。

それではこのような神智学の影響力は、どこに由来するのだろうか。神智学運動を他のオカルト運動から区別し、その組織を支えていたのは、ブラヴァツキーの語ったマハトマ(聖者)の物語であろう。ヒマラヤに太古の知識を伝えるマハトマたちが隠れ住み、彼女に真の仏教を伝授し、今なお彼女と神智学協会を指導していると彼女は語り、その証拠として周辺に超自然現象が起きたとされる(詐術とも批判されたが)。

このように幾重にも神秘の重なった神智学の「物語」は、人々の東洋宗教への関心、特にチベット仏教への好意的な目をもたらしたのは事実である。実は日本仏教についても同様の物語が存在している。山伏がそうであった。

山伏について、ブラヴァツキーは、主著『秘密の教義』(1888)や『夢魔物語』(原著、1892)所収の小説「不思議な人生」などで語っている。彼らは僧侶兼戦士の苦行者たちで、その神秘的な結社の本拠は京都近くにあり、病気治しで知られると書かれている。要するにマハトマ伝説をヒマラヤから京都に移したものであったが、かなりの影響力があった。

1893年、2度目に来日したダルマパーラは、ブラヴァツキーの言うように、日本では山伏がいまだにオカルティズムを研究していると神智学雑誌に伝えている。同じ頃、カリフォルニアに留学していた松井宥粲という真言宗僧侶(後の善通寺派管長)は、アメリカ人仏教者の集まりで、山伏が清浄で禁欲的な生活をし、その符呪はどのような病気も治すとアメリカ人に絶賛されていたと真言宗の雑誌に発表している。さらに40年ほど時代を下った後でさえ、この物語は生きていて、戦前の数少ない欧米人禅者の一人であったミリアム・サラナブは山伏伝説に憧れて訪日した。

こうした日本仏教のイメージに対して、フェノロサやビゲローに戒を授けた桜井敬徳は、「どうもあの人々には困る、何時神通力が得られるかと言ふことばかりを頻りに言ふ、何せ支那や、日本の佛教は、成るべく、さういふ方を遠かる様に進んで来たもので、途が違ふのである」と述懐したという(『禅宗』190号、1911年1月)。確かにその通りであり、こうしたすれ違いは、その後も日本仏教のグローバル化につきまとう。しかし、そのすれ違いがなければ、交流と対話は生じなかった。そして、それをもたらしたのは、人々の潜在的な東への憧れを形にし、物語に力を与えたブラヴァツキーの大きな功績であった。