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「花祭り」の起源

龍谷大文学部教授 中西直樹氏

2018年4月6日付 中外日報(論)

なかにし・なおき氏=1961年生まれ。龍谷大文学部大学院修士課程修了後、京都女子大事務職員、筑紫女学園大准教授を経て、2013年から現職。著書に、『仏教と医療・福祉の近代史』『仏教海外開教史の研究』『植民地台湾と日本仏教』『近代西本願寺を支えた在家信者―評伝 松田甚左衛門』など。

日本で釈尊の誕生を祝う行事の最初は、606(推古天皇14)年4月8日に元興寺で営まれた斎会であったとされる。840(承和7)年には法相宗の僧静安により、清涼殿で灌仏会が修され、以後宮中で恒例行事となった。

しかし、灌仏会が「花祭り」として一般に定着したのは、明治期になってからのことである。その歴史をひもといてみよう。

東京諸学校仏教青年会の降誕会

法会としての灌仏会ではなく、仏教行事として最初に「釈尊降誕会」を行ったのは、東京諸学校の仏教青年会であろう。

明治20年代初頭は、宗派をこえた「通仏教」的結束が高まり、仏教青年会が各地で組織された。なかでもその代表格が、第一高等中学校・帝国大学(現東京大学)の「徳風会」、慶應義塾の「三田仏教会」、東京専門学校(現早稲田大学)の「教友会」であった。

明治25年1月、この3校の仏教青年会に、哲学館(現東洋大学)、法学館(現中央大学)の学生らも加わって、駒込真浄寺に集まり連合会を開いた。共同での事業展開について協議し、4月に釈尊降誕会を執行することと、夏期講習会を開催することを決めた。

同年4月8日の執行に先立って、大内青巒に釈尊の伝記を略述したパンフレット『宇宙之光』の撰述を依頼し、当日参列者に配布した。ちなみに、この『宇宙之光』は、現在、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができる。

当日の午前中は徳風会が担当し、真浄寺で講演会を開き、寺田福寿、小栗栖香頂が講演した。午後は哲学館学生の担当で、神田錦町斯文学会講堂において盛大な降誕会が執行された。講堂の正面に簡易な花御堂を設営して誕生仏を安置し、大内青巒や島地黙雷らの仏徳讃嘆の演説が行われた。夜は三田仏教会が担当し、引き続き法話・演説があった後、余興に薩摩琵琶と一弦琴の演奏があった。数百名の入場者があり、やむなく入場を謝絶するほどの盛況であったという。

大日本仏教青年会の結成

東京諸学校の連合による降誕会は、その後も恒例行事となった。さらに明治27年1月には、各学校の仏教青年会に所属する学生60~70名が集まって東京諸学校仏教連合会を開き、4月8日の釈尊降誕会を期して「日本仏教青年会」を結成した。

その趣意書には「無我」を標榜する仏教が、宗派の枠に固執している姿勢を批判し、超宗派的組織として活動することが宣言されていた。また、次のような規則を定めた。

第一条 本会は日本仏教青年会と称し本部を東京に定めて支部を便宜の地に置く。

第二条 本会は青年学生にして仏教を信奉し且つ其弘通を謀るを以て目的とす

第三条 前条の目的を達する為め左の事項を行ふ

一、毎年釈尊降誕会を執行すること

二、毎年便宜の地に於て夏期講習会を開くこと

三、定期若くは臨時説教講義及演説会を開くこと

四、定期或は臨時有益なる出版物を発行することあるべし(以下略)

夏期講習会とともに、釈尊降誕会を主要な行事と位置づけたのである。日本仏教青年会は、後に「大日本仏教青年会」と改められ、昭和6年の全日本仏教青年会連盟結成の原動力となった。初期に活躍したメンバーには、後に衆議院議員・文部大臣となった安藤正純(哲学館)、清沢満之らと真宗大谷派改革運動を推進した月見覚了(帝国大学)、衆議院議員となり日中友好にも大きな足跡を残した柏原文太郎(東京専門学校)らがいた。

ベルリンの花祭り

「花祭り」という名のもとに催されたのは、明治34年のベルリンのフィヤ・ヤーレス・ツァイテン・ホテル(四季ホテル)での釈尊降誕会が最初であろう。

発起人は、本願寺派留学生の薗田宗恵、大谷派留学生の近角常観と池山栄吉、姉崎正治、巌谷小波、長岡外史、藤代禎輔ら18名であった。当日、来会者は300名に及んだが、内250名は現地のドイツ人であった。まず、ホテルの大小7間を借用し、広間の中央の壇上に種々の花束で飾った3尺(約90センチ)余りの御堂を据えて誕生仏を安置し、両側に薗田と近角が法衣を着けて持した。

午後8時に長岡陸軍大佐が日本語で開会の趣旨を述べ、ブロース判事が通訳した。続いて姉崎がドイツ語で花祭りの由来をクリスマスとの比較をまじえて説明し、日独協会の会頭ブルンが祝辞を述べ、巌谷が新作のおとぎ話を朗読した。最後に藤代が堂を飾った花を参加者に配り、余興として舞踏会が開かれた。会は盛況でドイツ人からも喝采をうけたとされる。翌年にもベルリンとストラスブルヒの2カ所で第2回花祭りは開かれた。このとき、近角はすでにドイツを離れていたが、かわってドイツ留学中の大谷派連枝大谷瑩亮らが参加した。

安藤嶺丸と仏教青年伝道会

花祭りを街頭で行い、一般に普及させた人物として忘れてならないのが、安藤嶺丸である。安藤は、明治3年に東京浅草の大谷派蓮窓寺に生まれ、同寺住職を継職した。

明治35年12月7日、安藤の呼びかけにより浅草伝法院で仏教青年伝道会の発起人会が開催された。当日参集した多くは浅草周辺の寺院関係者であり、そのネットワークから、新たな伝道活動を行うために会が結成されたのであった。

翌年4月1日、浅草公園内に15坪の天幕(テント)を張り、80日間にわたり第1回天幕伝道を実施し、以後、会の主要な恒例事業とした。天幕伝道は、寺院が葬祭の場となっている状況を嘆き、葬式や年忌法要で「家の宗派」として集まる信徒とは別に、新たな信者の獲得を目指してはじめられたものであった。

会は「仏教の根本義に依りて敢て一宗一派に偏せず」を綱領の第一に掲げ、唱歌伝道、避暑地伝道、文書伝道、郵便局員伝道、鉄道職員伝道など、さまざまな事業に取り組んだが、特に重要視したのが「仏誕会を奨励して国民的祭典たらしむること」であった。

明治38年に第1回釈尊降誕会を行い、浅草公園の天幕内に花御堂を設けて300余名の聴衆を集め、以後毎年の行事とした。明治40年4月には、仏教青年伝道会の主催により、来会者3800余名を集め「大日本仏教徒大会」が大谷派浅草別院で開催された。このとき、ピアノやバイオリン演奏の音楽法要で降誕会が催された。

各宗連合花祭り

大正5年、安藤は渡辺海旭・大森禅戒と協力して「東京連合花祭り会」を組織した。前年の12月に「仏教連合会(「全日本仏教会」の前身)が組織されており、仏教各宗派の協賛を得て「各宗連合花祭り」として盛大に行われることになった。

まず4月7日に、築地本願寺・浅草本願寺・増上寺・両国回向院・浅草公園仏教青年伝道会堂など10カ所で、「花祭り連合大伝道」が開催され、各宗派の名僧碩学が講演した。

翌8日には、在留スリランカ人が制作した花御堂を日比谷音楽堂前の広場に設営し、午後2時を合図に各宗派の代表・稚児数百名の行列が入場した。祝辞ののち、安藤が、花祭りの挙行を通じて、仏教徒として精神的団結を図り、世界平和と人類の幸福、国家社会への貢献を期する旨の宣言を読み上げた。

9日には東京の仏教系諸学校の学生ら数万人が集結し、少年音楽隊の先導により盛大な音楽法要が挙行された。夜には日本とインドの仏教徒の懇談会も開催された。期間中、仏教徒経営の工場で臨時休業するところもあり、日比谷警察署は、非番の巡査600余名を臨時召集して警備にあたったという。翌年以降、花祭りは、京都・大阪など全国へ広まっていった。

当時の『中外日報』の社説は、花祭りの普及を願いつつも、単なるお祭り騒ぎに終止するのでなく、仏教徒としてあり方を自覚反省する日にしたいとしている。今年も4月8日を迎えるにあたって、『中外日報』社説がいうように、仏教徒としての自己のあり方を改めて内省する日にしたいと考えている。