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江戸末を活(い)きた禅僧・蘇山玄喬

花園大国際禅学研究所研究員 瀧瀬尚純氏

2018年4月18日付 中外日報(論)

たきせ・しょうじゅん氏=1975年、大阪府生まれ。花園大文学部仏教学科から同大学院文学研究科仏教学専攻博士後期課程単位取得。臨済宗妙心寺派寒山寺住職。研究領域は日本近世臨済宗について。主著は『日本人のこころの言葉 栄西』(共著)。

本年はいわゆる明治維新百五十年の節目に当たる。各地で維新関連の各種イベントが行われ、大河ドラマに西郷隆盛が取り上げられるなど、江戸から明治・近世から近代へと大きく転換する時代を回顧する機運が高まっている。

そのちょうど150年前に当たる明治元年12月14日、尾州(名古屋市)徳源寺では、一人の禅僧が示寂のときを迎えていた。名を蘇山玄喬(1799~1868)という。蘇山が活躍した足跡は各地に残されているが、徳源寺を臨済禅の修行道場として新たに開いたことで特にその名が知られている。

「日本臨済宗中興の祖」と称される白隠慧鶴(1685~1768)の法系に連なる蘇山は、白隠→峨山慈棹→卓洲胡僊→蘇山と次第する、白隠下第3世代にあたる。白隠は、自ら「我、人を得ること古人に愧じず」(『槐安国語』)と述懐したように、東嶺円慈や遂翁元盧をはじめ優れた弟子を多く打出した。白隠の弟子たちは全国に散らばり、さらに各地でその会下に秀でた徒弟を輩出し続け、やがて白隠の一門は近世日本臨済宗界を席巻することとなる。

その白隠の法脈に連なる蘇山は昨年、150年遠諱を迎えた。遠諱を記念して蘇山の遺墨や語録を集めた『妙用禅師遺徳集』が徳源寺より発刊され、加えて花園大学歴史博物館では昨年12月11日から本年2月3日にかけて「蘇山玄喬」と銘打った展覧会が開催された。本稿では、近世から近代への臨済宗門の転換・展開を、まさしくその中心にいた蘇山という禅僧の行履と宗風を見ることによって紹介したい。

蘇山玄喬は、寛政11(1799)年、肥後(熊本県)に生を受けた。俗姓は高橋氏といわれるが、出生地やその一族などは不詳である。6歳で父を亡くし、出家を志した蘇山は、肥後の見性寺において得度剃髪している。18歳まで見性寺で修行した後、九州から四国に渡り、遠く尾州総見寺の卓洲胡僊に参ずることとなった。卓洲に参ずること数年にして所悟を認められるが、その後も卓洲の示寂まで足掛け18年にわたり付き従い続けた。

卓洲が示寂した後、蘇山は自坊である見性寺に戻り住持となる。蘇山住山当時、見性寺の生活は窮乏を極めていた。蘇山の語録『鵞王毒涎』に収められる、日常底の心構えを説いた「制前作務普説」の中には、窮乏の状況が諄々切々と綴られている。しかし蘇山は、次のような古人の戒語を引き、枯淡を極める厳しい生活こそが雲水修行に資すると断ずる。

古人云く、「富貴は汝の善心を蠧害し、枯淡は汝の道情を玉成す」と。

この言葉の基づくところは

因って憶う、艱辛は爾の志を玉にし、又た知る、富貴は爾の愆ちを種うることを(『荊叢毒蘂』巻九「永昌の新主人、座右の篇を請う」)

と、白隠が弟子に対して述べた訓示にある。若き白隠は松蔭寺に住した際、常に貧窮しながらも、参禅する修行者を厳しく接化した。その法派下にある蘇山が、白隠の言葉を引用することで、松蔭寺と同様の厳しい修行生活によってこそ、白隠下の正脈を継承しうる法材を打出できると確信していたのである。

加えて蘇山は見性寺に住山して以降、九州各地の寺院より拝請を受けて、様々な祖録を提唱した。『鵞王毒涎』には、梅林寺(福岡県久留米市)など各地寺院で行った提唱の際に詠まれた偈頌が多く採録されている。偈頌の分量によって知られる拝請の数・語録の多彩さを見ると、蘇山が当時の宗師家として、群を抜いた存在であったことが容易に理解できる。

安政4(1857)年、59歳を迎えた蘇山は城州(京都府八幡市)円福寺に住持として請われる。先代の石応宗珉は、蘇山と同時期に卓洲下で切磋琢磨した間柄であった。加えて石応の一代前の海山宗格もまた卓洲下であり、円福寺の法系を考えると蘇山を拝請することは極めて自然といえる。円福寺住持時代も雲衲接化や各地での提唱に余念がなかったようであるが、中でも妙心寺で開山・関山慧玄500年遠諱が厳修された際、蘇山が特請され、『臨済録』の提唱会を催したところ、千余人に上る雲衲が全国より参集したことが特筆すべき事蹟といえよう。

文久2(1862)年の夏、当時の臨済宗門を代表する禅者となっていた蘇山(64歳)は、新たに開かれようとする江湖道場の尾州・徳源寺に拝請されることとなった。新道場の開創は、臨済宗門にとって盛事といえる。しかしながら当時の社会情勢に目を転ずれば、幕末期の社会的・政治的混迷がいよいよ窮まっていた。このような混乱の時代に、新道場の開創は容易ならざる事業であったことが推測される。事実、徳源寺の本堂が落慶されるのは、蘇山が示寂する直前の明治元(1868)年の春であり、禅堂開単(文久3年)よりさらに5年もの歳月を要したのである。蘇山の徳源寺在住は最晩年の5年と短い。しかし、この短期間で厳しい経済状況の中、新道場の開単・本堂の落慶と大事業を次々と成し遂げることができたのは、ひとえに蘇山の大力量とその人望に依っていたのである。

徳源寺の本堂が落慶した同年12月14日早朝、蘇山は示寂の時を迎える。納棺に当たっても、生前の如き顔色であったという。世寿70、法臘六十二。生前、慶応元(1865)年には、孝明天皇より「神機妙用」の禅師号が下賜された。主な弟子には見性寺を嗣いだ葆岳玄寿、徳源寺の後を承け、妙心寺派初代管長に就任した鰲巓道契、梅林寺の住持となった羅山元磨、聖福寺(福岡市)へ請われた愚渓自哲などが挙げられる。これら蘇山の会下たちは大いに化を振るい、その法は円福寺・徳源寺にとどまらず、海清寺(兵庫県西宮市)・龍澤寺(静岡県三島市)にまで及び、示寂150年を経た現在も脈々と受け継がれている。

以上、蘇山の行履を中心に見てきたが、では蘇山の宗風とはいかなるものであったのか。日本近世臨済禅では、峨山慈棹の下より出た隠山惟琰と卓洲胡僊の二人をその宗風の違いから、「機鋒隠山、綿密卓洲」と称する。参禅室内の家風の違いからくる言葉であるが、それが転じて、隠山下、卓洲下の宗師家の人柄・接化法にまで敷衍されて評されることも多い。卓洲下の蘇山も当然、綿密なる家風を受け継いでいた。その様は、作務や普請、上棟の過程に関する緻密な記録に拠って窺い知ることができる。

また、単に綿密であるだけでなく、その綿密さは非情な厳しさに裏打ちされていた。蘇山の人柄は、

時に妙用(蘇山の諡号)、見性に住すること尚お未だ久しからず。炉鞴方に新たに、鉗鎚尤も厳し(『近世禅林僧宝伝』「梅林寺羅山和尚伝」)

師、性温和、然れども来機を接するに至っては、輒ち呵風罵雨、仮貸する所無し(同「見性寺蘇山和尚伝」)

と評されており、常に弟子に対し法を忽せにしない厳しい態度を取り続けていたことが分かる。

以上、蘇山の生涯を中心にその行履を見てきた。蘇山という禅僧が遺した特筆すべき行履すべてが、現在の臨済宗門に多大なる影響を与え、宗門形成の重要な基盤の一つとなっていることは疑う余地が無い。本稿が、蘇山という禅僧、或いは近世から近代へと遷る臨済禅の流れなどに触れる切っ掛けとなれば幸いである。