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忘れられたハワイ・ホノウリウリ監禁所

ハワイ日蓮宗別院主任(住職) 平井智親氏

2018年5月9日付 中外日報(論)

ひらい・ちしん氏=1963年、佐賀県生まれ。広島大卒。立正大大学院修了。89年、日蓮宗教師に新叙。92年11月に渡米、以来25年にわたって海外布教に従事。プウネネ教会(米国ハワイ州マウイ)主任、英国ロンドン教会主任、国際センター(米国カリフォルニア州)所長、ハワイ開教区長等を歴任。

2017年2月に立正大学の安中尚史教授と笹岡直美先生がハワイ日蓮宗別院の宝物調査に来られ、ハワイの歴史に関する大変貴重なものを発見された。法要で使う太鼓に墨書されていた「ホノウリウリ監禁所」の文字である。

今から約75年前、真珠湾攻撃が行われ、日系社会のリーダーたちが拘束され収容所に送られた。そして、寺院や神社などは全て閉鎖を命じられた。これらのことは、アメリカの歴史において、消すことのできない汚点として今に伝えられている。実際に経験された方もまだご存命で、生々しい記憶として残っている。残っているはずなのに、忘れられていたことが存在した。それは、このオアフ島にあったホノウリウリ収容所のことである。

ホノウリウリ収容所は、第2次世界大戦中、基本的に日系人を収容するために造られた施設で、そのような場所はオアフ島には一つだけだった。1943年3月に開設され、46年に閉鎖。ハワイ州内に設置された17の収容所のうち、最大で最も長く運営された施設である。高い嶺に囲まれた盆地におかれ、二重の有刺鉄線に囲まれたこの施設は、「地獄谷」とも呼ばれ、日系人日本人のみならず、多くはないがイタリア系やドイツ系のアメリカ人も収容され、後期には捕虜も留め置かれた。

ハワイで生まれ育った生粋のアメリカ人を日本人の血を引いているというだけで抑留したことは、アメリカ史上重大な恥部であり、その他の差別などと併せて日系人に塗炭の苦しみを与えたことは忘れられるべきことではない。2015年に国史跡の指定を受け、私たちの心の中にも大切なものとして再記憶されることとなったが、その存在を明確に証明できる最も信頼のおけるものが、1921年に当別院に奉納された太鼓であった。

ハワイ日蓮宗別院には、いろいろな太鼓があり、法要によって使い分けている。中には古くなってあまり使わなくなってしまったものもある。この太鼓も100年程前のもので、倉庫にしまって最近は使うことはなかった。ところが安中教授は、そのようなものまできちんと調査をされた。そして太鼓の下の部分に「ホノウリウリ監禁所」と書かれていたのを見つけられたのである。

「盂蘭盆会供養、於ホノウリウリ監禁所」とあり、漢詩のようなものや3人のお名前なども書かれ、日付は「昭和拾九年八月拾五日」だった。21年に奉納された太鼓が、43年に開設されたホノウリウリになんらかの理由で持ち込まれ、翌年のお盆に使われたのである。ハワイ日本文化センターの後藤レスリー氏に聞くと、同センターにはホノウリウリ収容所に関するいろいろなものが展示されているが、「ホノウリウリ」と記されたものは一つもないということである。また、その名前の入ったものを見たこともないという。

太鼓の記述にはいくつか注目すべき点がある。まず「ホノウリウリ監禁所」と書かれていること。その場所が当時、「収容所」ではなく「監禁所」と呼ばれていたことを示している。次に、ホノウリウリで盂蘭盆会が行われていたということである。アメリカ本土の収容所でも宗教活動が行われていた記録があり特別珍しいことではないが、ホノウリウリで行われていたことが明らかになったのは初めてであった。

太鼓の記述は薄くなっているところもあり、なかなか全てを判読することは難しかったが、繰り返し見ているうちに少しずつ読めるようになり、「沙門」さらに「善」という文字が読めた。「善」の字のつくお名前を持つ僧侶の方には心当たりがあった。曹洞宗の随分前の総監、駒形善教先生である。現在の曹洞宗ハワイ総監の駒形宗彦先生のお祖父様に当たられる。そこで早速電話をしてみたところ、想像通りであった。他の多くの僧侶は、当別院の望月桓龍先生と同じようにアメリカ本土の収容所に移送されたが、善教先生だけはハワイに留め置かれ、ホノウリウリにずっと収容されていたのだそうだ。それで日蓮宗別院の太鼓が、曹洞宗の善教先生に託されたのだろう。

この太鼓をどのようにするのか。まず私が考えたことは、別院とホノウリウリ収容所跡においてこの太鼓を使ってお盆法要を行い供養するということである。

2017年7月9日、当別院の盂蘭盆施餓鬼法要において塔婆供養をし、実際に太鼓を用いた。法要中、お題目をお唱えする時にお寺の理事長(筆頭総代)にたたいてもらった。古い太鼓なのでいつものように元気よくというわけにはいかず、優しくたたいてもらった。柔らかな太鼓の音が本堂に響き、胸が一杯になった。ホノウリウリ収容所で大変な苦労をされた方々の霊がきっと集まって聞き耳を立て、供養を受けてくれたものと思う。

ホノウリウリ収容所跡での法要には、いくつもの困難が重なった。国史跡に認定されたため国定公園管理局の管轄となっているが、実際は巨大な企業の所有する敷地の一部で、勝手に出入りできる状況にない。事前に参加予定者の名簿を土地所有企業に提出し許可を得る必要がある。法要は窓口となっているハワイ日本文化センターの尽力で実現したが、多くの人に参列してもらうことは不可能だった。70年前に使われていた道は自然に戻っており使えない。現在の道も悪路でとても狭く大型バスが入れない。定員20人程度のバンでしか入ることができず、人数制限をせざるを得なかった。

「地獄谷」からは、青くどこまでも広い空は一部分しか見えない。青く輝く海は、全く見えない。ハワイが誇る最も美しいものが極端に制限された場所に連れて来られた時の絶望感は、私の想像の及ぶものではないと思う。この地に抑留された方々がどのような気持ちで過ごされていたのかを考えると、胸がつぶれる思いであった。

監禁され、不自由な生活を強いられ、絶望的将来しか見えない人たちが、どうしてそこまで亡くなった家族のことを思い、祈りを捧げられたのだろうか。宗祖日蓮聖人はその御遺文の中で、頭も手も足も全て親からもらったものであると教えられている。だから、親のために祈ることは自分を祈ることでもある。ホノウリウリ収容所の人々がそう理解していたのか私には分からないが、お盆法要を行うことで亡くなった家族だけでなく、そこに集まった人々も慰められたことは疑いようがない。

お盆法要は当時と同じ8月15日に行われた。とても素晴らしいものとなった。当時の施設は残骸が散見されるだけとなっていて、広場のようになっていた倉庫跡に簡単な祭壇を設えた。祭壇の脇には、ハワイ日本文化センターに依頼して抑留者全員の名前が掲載されているパネルを立ててもらった。73年前にお盆法要を執り行われた方の孫、駒形宗彦先生に導師を依頼し、曽孫の駒形宗二先生が式衆として補佐した。ハワイ仏教連盟各宗派総長各聖や在ホノルル日本国総領事館の三澤康総領事などにもご臨席頂いた。

優しく響く太鼓の音を聞きながら、当時はどのような音だったのだろう、どのようなリズムだったのだろう、どのような気持ちで法要をされていたのだろうと考えた。分からないことだらけであったが、一つだけ言えるとすれば、当時のご苦労のおかげで、現代に孫、曽孫だけでなく多くの日系人日本人が平和で幸せな暮らしをしているということである。そのような方々に追悼と感謝の念を捧げるのは、人として当然のことと思う。追悼と感謝の念を捧げること、今の人たちに過去何があったのかを教え、未来の人たちのために、同じ過ちを絶対に繰り返してはならないことを戒めとして残すために、法要を行う必要があった。

1943年に開設されたホノウリウリ収容所は今年、開設75周年となる。大きな犠牲を払って得た大切な教訓をアメリカは忘れてはいけないと考える。特定の宗教を信仰したり特定の条件を備えた人たちが、入国制限などで現在差別の対象になってきている。善良な市民までもが故なき制限を加えられるという意味において、過去の間違いが再び繰り返されようとしているように思える。過去に対する反省、現在に対する周知、未来に対する警告として、ホノウリウリは史跡に指定された2015年よりもさらに重大な意味を持つようになってきているといえるかもしれない。