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浄土宗の御詠歌

佛教大宗教文化ミュージアム館長 小野田俊蔵氏

2018年5月11日付 中外日報(論)

おのだ・しゅんぞう氏=1952年、神戸市生まれ。佛教大大学院文学研究科博士後期課程(仏教学専攻)修了。博士(文学)。佛教大歴史学部教授。主要著書に『MONASTIC DEBATE IN TIBET』(ウィーン大学チベット学仏教学研究書)、『チベットの僧院生活』『チベット巡礼』(共著)など。

江戸幕藩体制下の仏教教団の多くは幕府によってすすめられた檀家制度に基づく組織によって守られてきたが、一転して明治維新になると、廃仏毀釈や一連の宗教統制によって寺領からの収入というものが閉ざされ、宗派独自の独立した経済基盤を確立する必要に迫られた。寺領という土地からの収入という点で恵まれていたのは、天台宗や浄土宗あるいは真言宗や臨済宗などである。一方、浄土真宗や日蓮宗などは寺領の恩恵にあずかることは元々それほど多くはなかった。つまり、逆に言うと明治維新によって「上知令」が発せられ、寺領からの収入を閉ざされても衝撃が少なかったのは浄土真宗や日蓮宗であった。これらの宗派はすでに布教活動の基盤を作る「講」組織に類する下地、つまり末端の檀信徒組織の積み上げによるネットワークがあったのである。最も打撃を受けたのは真言宗や天台宗そして臨済宗であったという。これらの宗派の僧侶は出家者の修行法や道場の体系には長けていたが、一般大衆に分かり易く仏教思想を説くことには慣れていなかった。明治になり多くの宗派が浄土真宗の布教法を模倣したという。

御遠忌事業という求心力

明治44(1911)年の法然上人700回忌の遠忌は、親鸞聖人の650回忌の年にもあたり、知恩院と東西本願寺が位置する京都に50万人の参拝があったと記録されている。まだ珍しかった鉄道による輸送ということもそれに拍車をかけたと考えられている。一般信徒への布教方法を模索していた真言宗系の宗派ではこれに注目し、弘法大師の遠忌1100年忌にあたる大正23(1934)年に向けて大正14(1925)年頃から大々的な遠忌事業を開始した。教団は大師主義を掲げ大師信仰を巻き起こすことによって浄土真宗に対抗できる大衆布教の路を模索したのである。「宗祖に帰る」という明確で分かり易いキャッチとアイデアは日本仏教全体に大きな変革をもたらした。まさしく遠忌活動が日本仏教を救ったのである。

真言宗による御詠歌の組織化はこの遠忌活動の一環として開始されたようだ。1926年には金剛流御詠歌の指導者が各地を巡回し、御詠歌による一般信徒への布教を進め、各地に講を設立しそれらを組織化して5年後の昭和6(1931)年には講員は16万人を数えるまでになったという。昭和9(1934)年の御遠忌は大成功であった。多くの参拝客で高野山はあふれかえり、御詠歌の奉詠大会は期間中に4回開催され、延べ数千人の参加があったと記録されている。

大和流・金剛流・密厳流の三流儀

御詠歌の流儀で最も早く成立したのは大和流である。大和流の創始者である山﨑千久松(1885~1926)が20歳過ぎから各地の霊場を巡拝する中で各々の巡礼地で伝承されていた巡礼歌の節を分類し整理確定していき、大正10(1921)年に大和講という御詠歌の伝承団体を設立した。これが大和流の起こりで、教団が直接関与して設立されたわけではない。山﨑の分類によれば大和節、京節、木揚節、中和讃節、木槍節などの基本十二節があったという。

金剛流設立に大きな役割を果たしたのは曽我部俊雄(1873~1949)である。昭和4(1929)年には金剛流を統括する「詠監」に任命されている。真言宗の他の一派である智山派の教団が昭和6(1931)年に密厳流を創設する。当時の管長である旭純榮が、高野山真言宗の金剛流の活動に刺激されて自派にも御詠歌の伝承団体である遍照講を設立したのである。

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江戸時代には沢山の巡礼歌の歌詞の解説書が出版されていた。寶永2(1705)年刊行の『観音三十三所霊験記真鈔』を著した松誉は浄土宗の学僧であったようだが、宗派的色彩は鮮明ではなく、むしろ古今集や新古今集などの和歌の教養に豊かで、その意味では通仏教的であるようだ。松誉よりも後に活躍し享保11(1726)年に刊行された『西国巡礼歌諺註』の著者であった厚誉春鶯も浄土宗の僧侶であったと思われる。数々の西国霊場あるいは巡礼歌に関する書物を著述し解説を加えた筆致の中に法然上人の御詠や『観無量寿経』から援引するなど浄土教的な色合いも交えた解説をした。さらに厚誉春鶯に引き続き愍誉知寛というこれも浄土宗の僧侶による『西国巡礼歌奥義鈔』は寶暦5(1755)年の刊行である。いずれも観音菩薩の利益は本地である阿弥陀如来の悲願である、という浄土教的位置づけで解説が編まれていることが特徴とされる。

庶民の間にひろまった各種の巡礼の流行は西国巡礼や観音霊場めぐりが主であったが、この流行は浄土宗にも波及し、順阿霊沢によって『圓光大師御遺跡二十五箇所案内記』が著わされ、二十五霊場巡りが寶暦12(1762)年の4月には開始されている。札所には石柱が建てられ、上人ゆかりの御詠歌額をかかげて、巡拝者は真摯に霊場を巡拝しその御詠歌を唱えるようになった。そもそも「念仏の声する所が我が遺跡なり」という法然上人ご自身の言葉に基づいて霊跡を特定しないことを標榜してきた念仏集団も庶民の巡礼への熱望に答えざるを得なくなったのである。因みに現代の浄土宗の御詠歌(吉水流詠唱)もこの二十五霊場の巡礼歌を基としている。白隠禅師の弟子で白隠の龍澤寺を継いだ圓慈東嶺和尚も西国三十三所の御詠歌に註記を施した『西国巡礼歌圖解』を寛政8(1796)年に著している。このように宗派を超えて多くの僧侶が一般に親しみのある巡礼歌の歌詞を媒介として仏教を布教しようと努力したことが分かる。

節に関しては念仏の弘通に大きな功績を残した空也上人が自作の和歌に節や調子をつけて唄ったものが巡礼歌の節のもとになったとの俗説があり、その後時宗の第四世の呑海がその節を完成させて「呑海節」なるものが出来て大いに流行したという話もある。天台宗には漢文経典読誦の伝統である天台声明の旋律を援用した和讃の「叡山流」がある。これには舞踊がとり入れられていた。

御詠歌奉納の位置づけ

世間一般では御詠歌は「乞食巡礼が御報謝を求め呼びかけながら唄った巡礼歌」という暗いイメージや側面もあった。それを正統な「仏教音楽」と評価しなおす活動を各詠唱流派は行わねばならなかった。「正調」あるいは「正統」という言葉を散りばめながら御詠歌の起源を読経の技法である声明と大胆に解釈しなおし「在家声明としての御詠歌」という概念を広めたのである。

多くの自然発生的な講が「流儀」へと再編され、やがてその流れは真言宗内他派や各宗へと伝播していく。東寺流、三宝院流、曹洞宗の梅花流(詠讃歌)、臨済宗の花園流など多くの正調の流儀が誕生していくのである。

僧侶の経典読誦と同等の格式を聞く者に抱かせるために演出上の様々な工夫が施されている。

まず、カタログ化である。札所や巡礼地に特定の和歌を結びつけることは近世から行われていたが、「唱えたてまつる○○番の御詠歌……」というようにその詠唱行為自体に格式を持たせていったのである。漢文でつづられている経典とは違い、和語で詠まれた歌は難解な文章語に親しみのない一般市民にも近づき易い。

経典読誦あるいは真言や称名念仏と同等という位置づけは別の意味も持つ。追善回向に直結するのである。本来は讃歌であり釈教歌であった御詠歌は、難しい経文になじみにくかった民衆が、自分の言葉でほとけの徳を誉め称え、自らの深い信仰心を吐露するものであった。それが同時に死者の追善回向になるのであれば民衆にとってこんなうれしいことはない。

今日でも多くの地方で、西国三十三カ所や四国八十八カ所の御詠歌を唱えることでもって死者の霊の成仏への道の推進力になるとみなす信仰が残っている。新仏(にいぼとけ=あらた)ができると、四十九日の満中陰の日まで毎晩隣近所の同門の信者が霊前で御詠歌をあげる習慣を全国で確認することができるという。各札所の御詠歌をあげ、途中の何番目かの札所に詠歌の旅が到着すると死者のために休憩をし、また再度御詠歌による巡礼の旅に同行し続けるという。途中の難所にさしかかるとお茶を供えて死者の応援をするのだという。この一連の行為が追善回向になると信じられているのだ。