高野山の近代化 ― 女人禁制解除と外国人登山の視点から
高野山大総合学術機構課長 木下浩良氏
2018年5月30日付 中外日報(論)
真言宗の宗祖弘法大師空海が開創された高野山は、かつて女人禁制の御山であった。このことは高野山に限らず、日本全国の霊山は、同様に女人禁制であった。
高野山の七つの登山口には女人堂が設けられていて、女人の高野山入山を閉ざしていた。
女人禁制が解かれるには、1872(明治5)年3月27日、明治政府による「神社仏閣之地ニテ女人結界之場所有之候所、自今被廃止候条、登山、参詣、可為勝手事」との太政官布告98号の発布を待たねばならなかった。何故、明治政府は女人結界を解くように指令したのであろうか。それは、明治5年3月から5月、京都で開催された第1回京都博覧会で多数の外国人の来訪が見込まれたからであった。それら外国人は、近隣の比叡山への登山を望むものと予測され、その時に女人禁制だからと女性の登山を禁止したならば、文明開化を唱えていた政府にとって悪影響との判断が起因であった。
ところが、高野山においては明治5年3月27日を以て、一瞬にして女人禁制を解いた訳ではなかった。紆余曲折しながらも、徐々に女人禁制を解いていった。女人禁制解除は国策としてなされたものであり、これに対する高野山の抵抗と、まさに近代化という時流との攻防があった。そのことは、高野山が近代化する時代の変革には時間の経過を必要としたのであって、同時にこの頃の高野山における外国人登山は近代化の象徴であった。
明治5年3月の太政官布告の直後、高野山における指導的立場にいた、釈良基・高岡増隆・獅岳快猛・釈雲照等の各師は一山の大衆を糾合して「女人再禁の血盟書」を作成して太政官へ建白した。さらに中堅クラスの僧侶等は御社前で水盃を酌み交わして政府に強訴しようとした。この動きには政府も黙止されず、高野山のみは女人結界勝手たるべし、との朝廷の内意を伝えて安穏におさまった。
太政官布告から1年後の73(同6)年春、高野山ではようやく女人の高野山登山が見られるようになる。その頃、高野山内の町家の木炭店で、最初の山内結婚が行われた。ただ、山内は女人禁制解禁の反対運動の最中であり、大問題となり投石事件や、木炭の不売買同盟まで結成されるという大騒ぎとなった。さらに、79(同12)年8月には味噌屋を営む夫のあとを慕って高野山に永住した、初めての女性が現れた。
かくして、女人解禁の闘争は80(同13)年まで続くことになる。同年5月、高野山各院は女人止宿禁止とし、女人は山内寺院において白昼だけの休息を認めた。女人の宿泊は、江戸時代の女人禁制当時に復して、旧女人堂を修理し仮の女人参籠所とし、いずれは正式の女人参籠所を寺院外地へ建設することになる。女人の参詣は許すが、止宿は隔離した。
問題は、女人参籠所を何処へ建設するのかであった。高野山内であっても僧坊に隣接していなければ認めることになり、山内の数カ所に同参籠所を設ける案が出る。ただ、場所が多ければ取り締まり上不都合があるという理由で、82(同15)年3月に現在の高野山大の敷地の上段に設けることになった。この時、既に高野山大は高野山大学林として開校していたが、その敷地は現在の金剛峯寺奥殿付近の旧興山寺の跡地であった。
ちなみに、高野山大が現在地に移転するのは、旧制大学昇格後の1929(昭和4)年である。それまでの上段は、寺院もあったが町家が建てられていた。その後、上段は飲食店や商店が立ち並ぶ歓楽街へと発展する。金剛峯寺当局は高野山大が移転するまでに、鶯谷へ町ごとを移転させたのであった。
この上段における女人参籠所については詳細にできない。1884(明治17)年に行われる高祖一千五十年御遠忌を前にして、83(同16)年9月に「女人止宿制規ノ義ハ、漸次実践ノ良法ヲ立ツヘキ事」と女人止宿改正条々がなり、翌17年4月には1泊を限り女人の止宿が認められ、2泊以上の場合は教義所(現在の宗務所)へ届け出ることになった。
85(同18)年、女人解放の動きは一歩進んだ。それは尼僧に対する待遇で、同年の尼僧の一人が正式に高野山住山の僧侶の仲間入りをする「結縁交衆」をした。さらに、86(同19)年開校の古義大学林(高野山大学林が改称)に、尼僧入学が認められた。尼僧は堂々と高野山内を闊歩していた様がうかがえる。高野山の女人の住山は尼僧を先頭に築かれた。
その一方で、93(同26)年7月、金剛峯寺は請願巡査(地方自治体・企業・個人の請願により配置された巡査)の特派を出願して許可を受け、99(同32)年まで山内警備の駐在が続いた。請願巡査は金剛峯寺お抱えの山内風紀の取り締まりで、特に婦女子の取り締まりに当たった。
1901(同34)年5月、小松宮彰仁親王の高野山登山の時、特に女人留山について令旨を下されて、高野山の僧侶たちは得心したとされている。04(同37)年、日露戦争が突発すると、山内町家の店舗は出征軍人を多く出して、軒並みに閉店をせざるを得なくなった。山内寺院においてもそのことは同様で、男手が不足していった。そのため、06(同39)年、弘法大師開宗一千百年記念法要が修された日の同日、金剛峯寺座主密門宥範大僧正は、従来の規則を全廃して女人居住の許す山令を下した。女人禁制の治外法権が完全に消滅した瞬間であった。明治5年の太政官布告以来、実に35年にして高野山の女人禁制が解かれた。
一方、外国人の高野山登山について、まず挙げられるのがフェノロサで、1884(同17)年12月のことであった。この年、フェノロサは岡倉天心らを同行して近畿地方の古社寺宝物調査を行っているので、高野山へもその目的のために登山したものと考える。女性外国人の高野山登山の初見は、86(同19)年7月であった。これは、政府による高野山宝物内覧の時で、文部省視学官・大蔵省主計官他3名に、イギリス人女性が同行した。以下、順に高野山登山をなした外国人を挙げる。
1901(同34)年11月20日、ドイツ人のフランツ・バッエル氏。06(同39)年9月14日、神戸フランス領事ハンリー・エーメー・マルタン氏。同年10月27日、ルーブル博物館館長ミジョン氏。07(同40)年5月14日、ドイツのライブルヒ大ドクトル・エルニスト・グローゼ氏、ベルリン帝室博物館オット・キンメル氏、アメリカ人のウーソン氏。同月18日、チャールス・ジュー・モールス氏。
そして、『ナショナルジオグラフィック』07年10月号に、高野山の記事と高野山の僧侶の写真を紹介したのが、ナショナルジオグラフィック協会初の女性理事で、アメリカの著作家・写真家・地理学者のエルザ・ル・シドモアであった。全世界に高野山が発信された。
高野山の近代化に伴い、外国人が堂々と高野山へ登山して宿坊に宿泊するのは、女人禁制が完全に解かれた、明治39年・40年を待たねばならなかったのである。しかしながら、この年は高野山が世界に紹介される記念すべき年であったことを特筆したい。
山内住職の藤本真光師が公然と結婚式を大師教会本部であげたのは、26(大正15)年であった。式の最初に御法楽として般若心経をお称えしたところ、お手伝いの若い女性が思わず噴き出したというエピソードが残っている。笑い話とも受け取れるが、筆者はいまだ女人禁制の禁忌が残っていたことを今に伝えているものと考える。明治40年からさらに、20年後の出来事であった。