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専修寺の伽藍配置と御影堂如来堂

三重大学名誉教授 菅原洋一氏

2018年6月15日付 中外日報(論)

すがわら・よういち氏=1952年、秋田県生まれ。名古屋大大学院工学研究科建築学専攻博士後期課程満了。博士(工学)。専修寺御影堂・如来堂調査委員会委員長を務める。著書に『建築史の想像力』(共著)、『三重県史 別編 建築』(共著)、『藤堂藩の研究 論考編』(共著)など。
専修寺伽藍の成立

昨年11月、津市一身田町の真宗高田派本山専修寺の御影堂と如来堂が国宝となった。真宗教団の中で仏堂の国宝指定は、本願寺の御影堂、阿弥陀堂についで、2例目である。本願寺が親鸞の廟堂から寺院化したのに対し、高田派は親鸞に教えを受けた関東の門弟が中核となって、下野高田の専修寺を拠点に成長を遂げた教団であり、最初期の真宗において中心的な位置を占めた。この高田派が、関東から遠く離れた伊勢の地、一身田に設けた拠点が後の専修寺であり、その起源は15世紀末頃に成立した無量寿寺(院)に遡る。ここは、やがて高田と同名の専修寺と称されるようになり、江戸期には高田派の本山となった。本願寺とは異なる成り立ちの、高田派本山の専修寺が国宝に加わったことは、真宗の建築や信仰のあり方の、より深く多面的な理解につながるものと言えよう。

専修寺と前身の無量寿寺は草創以来、天正8(1580)年、正保2(1645)年の2度の火災に見舞われている。現伽藍は正保の火災後、万治元(1658)年に津藩により土地が寄進されて、境内を西側に拡充し、東西本願寺に匹敵する規模として整備したもので、この時に一身田の町も西側に規模を拡大し、全体を環濠で取り囲む形態となった。

伽藍の整備は土地寄進の翌年に始まる。寛文6(1666)年頃には、御影堂が概ね建ち上がり、同12年には宗祖親鸞の遺骨を祀る御廟が完成し、延享5(1748)年には如来堂が竣工した。火災焼失から100年余りの歳月を掛けて、主要部が整備されたことになる。

現境内のうち正保火災以前の範囲は、全体の約3分の1を占める東寄りの部分である。主要堂宇は、西寄りの新たに拡充された部分に設けられた。ここでは御影堂と御廟を拡充範囲の東西に、如来堂をその中間に配していずれも南面させている。これは東西本願寺の両堂が東面するのとは異なるが、当地は東風が強く東面堂では風雨の支障があり、東西に長い敷地の形状からも南を伊勢別街道が通ることからも南面が良いとの理由による。

真宗本山は今日、いずれも御影堂(または大師堂)と如来堂(または阿弥陀堂)を備えており、両堂が並列する配置は、本願寺では15世紀には成立していた。専修寺では、このような配置が正保火災以前にあったとは考え難く、現伽藍で成立したと思われる。しかし、専修寺の伽藍配置は、両堂と宗祖親鸞の御廟が並立する新規性のある配置と解するべきで、本願寺と同様の両堂並立と見るのは正確ではない。両堂と御廟を横一列とする配置は、御影堂の着工時には構想があり、歴代の関係者に継承され、ほぼ80年後の如来堂の建立で完成されたのである。

真宗本山で両堂と御廟が近世に遡り、同一境内にあるのは、一身田の専修寺、木辺派本山の錦織寺と高田派旧本山である下野高田の専修寺のみである。その中で、両堂と御廟が一体的に整然と配置され、一望できるのは一身田の専修寺以外にはない。真宗本山の伽藍配置の新たな定型がここに成立したと言えよう。

御影堂の建築

津藩の支援を得ていち早く整備された御影堂は、和様を基調とする入り母屋造りの堂で、東大寺金堂、本願寺御影堂に次ぎ、知恩院本堂(御影堂)とほぼ同規模となる。我が国有数の巨大建築である。

御影堂は、平面と内部空間の構成が、本願寺御影堂はじめ他の真宗本堂とかなり異なる。最も特徴的な相違は大間と中陣の奥行きが浅く、また内陣・余間の正面全長に及ぶ横長の空間となることである。大間は天井の高く広々とした近世的な大空間であるが、中陣は奥行き方向に天井の梁を架け、これを柱で支えている。中陣に施された彩色も相まって、ここは中世密教寺院のような力強く華やかで落着いた内部空間となっている。これは、天井を越えて小屋裏で直接に小屋梁を受ける建て登せ柱と、古代中世以来の伝統的な柱を巧みに使い分けた結果である。近世の大規模な仏堂では、構造的な理由から建て登せ柱を用いることが多いが、御影堂ではその使用を大間などの重点的箇所に限定し、中陣は伝統的な柱を主体としている。意匠的な効果の異なる2種の柱を使い分けて、特徴ある内部空間をつくり出しているのである。

さらに御影堂では、東西の余間にも前後に段差を設けるなど、本願寺御影堂に比較して、床の段差が多い。間仕切りと床の段差によって、最も重要な内陣周辺の空間のまとまりは知恩院本堂に類似したものとなっている。この傾向は末寺にも見られ、高田派の仏堂は浄土宗に近い位置にあることがうかがわれるのである。

関東文化の影響と見られる、比較的珍しい装飾的細部も御影堂の特色である。龍の彫刻を用いた正側面の外廻り組物や、向拝と側柱をつなぐ装飾性の強い架構、金箔を下地として鮮やかな色付けを施す向拝周辺の彫刻の彩色などがそれである。

如来堂の建築

このような御影堂が津藩の強力な支援のもとで完成したのに対し、如来堂は万人講が資金を募り、中断を含む長年月をかけて完成した。入り母屋造り、禅宗仏殿の華やかな外観が特徴で、禅宗様の二重屋根の形式の堂の中では最大級である。如来堂が禅宗仏殿の姿に倣うのは浄土宗でも見られる所で、この点も高田派と浄土宗の近親性を示すものであろう。二重の屋根とした結果、御影堂に規模では下回るものの、棟高は同程度となった。田園に囲まれた家並みの中に御影堂と如来堂が量的な釣り合いをもって並び立つ景観は随所から遠望でき、専修寺の存在感を発揮するものとなった。

外観が禅宗仏堂に倣うとはいえ、如来堂の内部空間には独特のものがある。それは、内陣に面する大間と中陣の中央部に堂内で最も高い天井を掛けて、立体性の著しい内部空間をつくっている点である。如来堂の平面は、一般的な真宗本堂とほぼ等しいものの、このような試みによって、如来堂は禅宗寺院とも異なり、真宗寺院としても異色の内部空間を持つものとなっている。

如来堂のさらなる特色は、上重の主体構造と、外観を構成する化粧の部分を分離することである。この方法は骨組みを先に組み、本来は骨組みに組み込まれるべき壮麗な組物などを、化粧材として骨組みに張り付けるものである。近世建築は建物本体の費用を抑え、その分、彫刻や塗装、金具等の装飾を重視する方向で発展したが、如来堂はその傾向をよく示している。存在感のある二重屋根の外観、華やかな内部空間や密度の高い内外の装飾は、整備の主体である一般門徒の関心にもかなうものと言えよう。

御影堂如来堂の価値

このように、専修寺御影堂と如来堂の形態や内部空間、構造技術や細部意匠には顕著な相違が見られる。それぞれが個性的で優秀であり、特色ある創意工夫もそれぞれの随所に見られる。建立の時期には80年ほどの年月の隔たりのある両堂は、あわせて近世建築の発展方向と到達点をよく示していると言えよう。江戸時代中期以前の両堂を備えた真宗本山寺院は、専修寺以外にない。専修寺の御影堂と如来堂は、我が国の仏教文化において重要な位置を占める、真宗の伽藍の特質を明らかにする上でも、極めて高い価値を持つものとして評価されるのである。