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古義大学林の尼僧学籍簿について

尼僧史研究家 松山文佳氏

2018年6月20日付 中外日報(論)

まつやま・ふみか氏=1965年、愛知県生まれ。津田塾大学芸学部数学科卒。IT企業勤務。2017年、高野山大大学院文学研究科密教学専攻修士課程修了。修士論文・最優秀論文の評価を受ける。

高野山大図書館に、同大の前身となる明治19(1886)年開校の古義大学林『尼僧近士學籍』がある。尼僧学籍簿があるということは、入学した尼僧は高野山に居住して古義大学林に通学したのだろうか。

1.明治前期の尼僧数

明治元年に神仏分離令が出された後、僧尼の管理は明治3(1870)年から民部省、大蔵省と変遷して、明治5年3月に教部省となった。同省は国家・天皇と宗教者との関係を規定した「教導職制」を定めたが、明治17年8月11日太政官布達第19号で教導職は廃止され、住職任免や教師の等級進退など全てを各宗派の管長に委任するとした。

この当時の尼僧数について、明治15年創刊の『日本帝國統計年鑑』から明治14年の状況を示す。尼僧住職数625人と非住職数506人の合計1131人が、明治14年末時点の尼僧数である。

2.各宗派の尼僧教育状況

浄土宗は明治20年7月に宗制で尼僧教育が定められ、翌21年に知恩院に尼衆教場が開校して仏教界で最初に宗派の尼僧教育の場が整備された。臨済宗は東海祖確尼が明治14年に岐阜に創設した「尼僧育才所」が、明治30年に宗派の尼衆学林として認められた。曹洞宗では明治35年に宗制で尼衆学林が制度化された後、私設も含めた四つの尼衆学林が富山、愛知、長野、新潟に次々に設立された。高野山修道院に尼僧科がおかれるのは大正13(1924)年6月であり、明治時代の真言宗には尼僧専門教育の場はなかったようである。

高等教育について、浄土宗では明治33年度私立浄土宗専門学院年末調査表に「本校ハ女子ノ入学ヲ許サス」とあることから、尼僧には尼衆教場以上の宗学の道は開かれていなかった。曹洞宗は、大正14年尼僧5人に駒澤大への入学が許可されたことが初である。

3.古義大学林の開校と『尼僧近士學籍』の成立

(1)古義大学林の開校

明治19(1886)年2月に真言宗宗制が改定され、明治19年5月1日高野山に古義大学林が開校、翌20年には東京音羽の護国寺境内に新義派の大学林が開設された。この宗制で、大学林の入学資格は教師試補以上、教師試補以上の者は住職であっても未交衆の場合は宗制上必ず古義、新義の大学林へ入学しなければならない、大学籍編入(入学)以上のものは住職になれるとされ、大学林への編入が住職資格取得条件となった。古義大学林の男僧用の学籍簿『従明治十九年五月至廿五年九月卅日大學籍』は5月から記入され、住職の編入者が多数記録されている。

(2)『尼僧近士學籍』の成立

『明教新誌』2005号掲載の明治19年5月1日開校時の古義大学林制規には尼僧に関する記載は見られないが、『明教新誌』2115号に明治19年11月17日付古義大學林所属寺院一般向け通知で、古義大学林編入手数料について「近士又は尼僧にて結縁入籍を願者も手数料金壹圓五捨銭を納めしむ」と掲載されており、ここで尼僧の編入が制度化されたことがわかる。

『尼僧近士學籍』には明治19年7月から33年8月までに49人が記載され、尼僧29人、近士5人、未記載15人である。尼僧29人のうち住職は7人、その他22人の内訳は徒弟19人、前住職1人、寄留1人、居住1人である。「近士」(近事)とは旧修験者のことである。

『尼僧近士學籍』では、明治19年7月24日に最初に編入した近士3人、明治19年11月4日編入の高尾妙円尼は、それぞれ別の紙に書かれたものが冒頭に貼られ、明治19年12月14日に編入した近士からは直接記入されている。尼僧29人の編入年は、明治19年1人、20年11人、21~25年8人、26~33年9人、と明治20年に集中している。明治20年の編入者のうち、確認ができた2人を次に紹介する。

花淵明鏡尼は大阪・平野の長寶寺第36代住職。長寶寺は坂上田村麿が大同年中(806~810)に創建し、明治18(1885)年の第35代護心大姉までは主に坂上家の女子が住職に就任して浄土と真言の二宗兼学であったが、明鏡尼より真言宗となる。『長寶寺縁起』では明鏡尼は明治19年1月から在位とあるが、『尼僧近士學籍』では明治20年4月編入となっている。先代の護心大姉尼は明治18年12月13日に遷化しており、明鏡尼は住職資格を得るために古義大学林に編入した可能性が高い。

佐伯心随尼は、淡路島の東山寺を復興した初代住職。寺は弘仁10(819)年弘法大師開基とされ、行基作と伝えられる観音菩薩像を本尊とする。創建当時の伽藍は焼失し、弘安8(1285)年現在地に再建され寺領600石と栄えたが、江戸時代末には無住となり荒れ果てていた。『尼僧近士學籍』で、心随尼は明治20(1887)年9月9日住職で編入している。『東山寺誌』に東山寺は明治19年尼僧寺に認可されたとあるので、心随尼はその時に住職に任ぜられたが、交衆をしていなかったため大学林に編入したと考えられる。

以上のことから、古義大学林は明治19年5月1日開校時には尼僧の編入を予想しておらず、男僧用の学籍簿のみを用意していた。しかし、11月4日に高尾妙円尼の編入申請があり、いったん別の紙に記録した。その後、宗制にもとづき、住職で未交衆の場合や住職資格が必要になった尼僧に対応するため、大学林の尼僧編入を制度化して19年11月に手数料について通知し『尼僧近士學籍』を作成して記録を開始した。その際、別の紙に記載した尼僧1人を『尼僧近士學籍』に貼付した。そして翌20年に11人の尼僧が編入した、と推測される。

なお、『尼僧近士學籍』の最後の記載が明治33年8月であるのは、真言宗内部での争いの結果、明治34年に古義大学林から各宗派聯合大学林に変わり、学籍簿の使用を終了したためと考えられる。

(3)尼僧の古義大学林入学の実態

高野山は明治5年に女人禁制が解除されたが、女性居住の公認は明治38年6月で、明治32年までは月に1、2回ほど山内潜住の女性の取り締まりが行われていた。このような状況もあり、『尼僧近士學籍』記載の明治19年から33年までの高野山での尼僧居住実績は、現時点では見つかっていない。また、『明教新誌』には明治19年以降、年に何回か古義大学林の試験成績表が掲載されているが、『尼僧近士學籍』の尼僧名は見あたらない。古義大学林編入手数料通知の「近士又は尼僧にて結縁入籍を願う者」との表現から、大学林側は当初から尼僧には住職資格を得るための編入のみ認め、通学は想定していなかったと考えられる。これらのことから、尼僧が高野山に住み古義大学林で実際に勉強した可能性は非常に低い。

4.まとめ

明治時代の真言宗は、尼僧専門教育の面では他宗より遅れていた。一方、教育制度について、他宗は尼僧についての取り決めを設けていたが、真言宗は特に尼僧についての取り決めがないこともあって、制度上はほぼ男女平等であった。古義大学林は当初男僧の事のみを想定していたが、宗制上の都合で尼僧の入学も認めることにして『尼僧近士學籍』を作成した。その結果、古義大学林は制度的には他宗派に先駆けた高等教育の男女共学となったが、通学などの実態はともなっていなかったと筆者は考える。