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印融500回忌に寄せて

駒澤大非常勤講師 遠藤廣昭氏

2018年6月27日付 中外日報(論)

えんどう・ひろあき氏=1956年、新潟県生まれ。駒澤大大学院博士後期課程満期退学。専攻は日本仏教史(禅宗史)。横浜市歴史博物館学芸課長、横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長を経て、現在は駒澤大文学部非常勤講師。東京都新宿区文化財保護審議会委員、永平寺史料全書編纂委員会委員。

今年、500回忌を迎える印融(1435~1519)は真言密教の学僧で、15世紀の中頃から16世紀の初頭にかけて活躍した僧侶である。この時代はまさに戦国の様相を呈した時代であったが、南関東を中心とした地域で布教・弟子の養成・著作活動に邁進し、後に弘法大師の再来とまで称賛された。しかし、このような学僧が戦国時代、南関東を舞台に活躍していたことは案外知られていない。

◆印融の生い立ち

印融は長禄元(1457)年12月21日に「仁王経大事」を書写している。これが印融の名が見える最初の史料である。彼は永享7(1435)年に生誕するが、これ以降長禄元年までの行状は明らかでない。『本朝高僧伝』には、武州久保県(横浜市緑区三保町久保)の人で、幼少より勉強家で多数の書物に目を通し、書物を読めばたちまちその内容を記憶したという。郷里には師と仰ぐ僧侶がなく、久保を離れ京都・奈良で勉学に励み、のち高野山無量光院に入り宗学を研鑽とある。

『三宝院伝法血脈』の印融の項には、「自分は幼い頃より老長の現在に至るまで、真言宗の事相・教相を学び、梵漢の両文を学び、さらには多数の書物の書写を行い、稽古研鑽に努めてきたが、愚鈍のため己の本懐を遂げられない」と述べている。この学徳を慕った関東の古義真言宗の談林(僧侶の養成機関)60余箇所は、いずれも印融の肖像を写して歳時饗祭したという。

◆印融の法流

印融は長禄4(1460)年に師賢継から、鳥山三会寺(横浜市港北区)で三宝院流道教方を伝授される。また、文明元(1469)年に西院流能禅方を同寺住持の鎮継から、同12年には石川宝生寺(横浜市南区)で長円(覚日)より相承する。さらに同年、西院流元瑜方を榎下観護寺(横浜市緑区)で円印より、翌13年には石川宝生寺で覚日(長円)より相承する。

印融は三宝院流道教方と西院流能禅方・元瑜方の二流三方を相承しているのである。同10年頃、印融は相伝した三宝院流道教方の重書を悉く集め、それに独自の解釈も加えて印融法流の根本とも言うべき「印融廿四帖」を完成させる。その後、印融の法流は「印融方」「印融廿四条方」と称され、伝授・相承されて行く。

◆付法の弟子たち

印融付法の弟子は37人を数える。最初の弟子は祐栄で、応仁3(1469)年に太田東福寺(横浜市西区)で三宝院流道教方を伝授する。これ以後、観護寺・金沢光徳寺(現在の龍華寺、横浜市金沢区)・三会寺・宝生寺、また柿生王禅寺(川崎市麻生区)、高野山二階堂(和歌山県高野町)、浦和延命寺(さいたま市浦和区)等で三宝院流を弟子たちに伝授する。西院流では元瑜方を文明13(1481)年に観護寺で長證に伝授して以後、光徳寺・石川慶(広)福寺・白根遍照院・柚木即清寺(東京都青梅市)で伝授する。また、能禅方は同14年に光徳寺で融弁に伝授して以後、観護寺で伝授する。印融は、武蔵国南部の真言宗寺院に出向いて付法を行ったのである。

付法の弟子の中で、その後の事績が知られる者に融弁と覚融がいる。

融弁は光徳寺の住持で、同6年に観護寺で三宝院流道教方を、同19年に光徳寺で西院流能禅方・元瑜方と、印融相承の二流三方を悉く伝授される。文明年中には浄願寺を光徳寺とともに兼帯し、明応8(1499)年には、両寺を併合し龍華寺とする。同寺の旧本尊弥勒菩薩坐像の胎内文書には、同9年12月12日の開眼日と願主法印融弁の名が見られる。その画像も残されている。

覚融は、武蔵の人で、仙順房といい、明応2年に王禅寺で三宝院流道教方を伝授されて以後、西院流元瑜方・能禅方を悉く相承する。同9年に印融が書した『惣譜伝』によれば、覚融は印融から長年の学功を認められ、「教相法水一滴不残」授写を許される。覚融を棟梁・正嫡と決めた印融は、高野山無量光院にいる覚融に対し、永正3(1506)年以後、『八転声私抄』『諸書得解抄』『宗義喩説拾集鈔』『十住心広名目』を著作・書写し勉学のため与えている。覚融は、天文13(1544)年、高野山金剛峯寺の第187代検校にまでのぼり詰めるのである。

無量光院は、白河院第四皇子覚法親王の開基で、印融中興の寺院であるが、覚融の後も清胤・玄仙・玄廣と学匠が続き、中でも清胤は越後の戦国大名上杉謙信の真言宗の師として有名である。無量光院の住僧はこの他、甲斐武田氏・駿河今川氏・安芸毛利氏等戦国大名と関係を保ちながら、印融法流を各地に展開させる。

◆印融の書写・著作活動

学僧である印融は、生涯で多くの写本や著作を残している。これが後の世にも書写され、また版本として出版されて現在にも伝わっている。その全容はいまだ掴めないが、60余はあろう。これを分類すれば、真言密教の事相・教相の類、梵字の教本である悉曇、音韻の教本、漢詩文に関わる書物、密教図像の本、辞書類等々広きにわたる。

真言密教の事相・教相ついては、釈論・大疏の関係書はもとより、三宝院流・西院流の四度等も作法に関する書も多く抄している。また『西院八結』等膨大な数の西院流の聖教を書写している。印融書写本の中には真言宗の事相相承血脈の集大成として、また、僧伝研究の上で最も信憑性の高い『血脈類集記』のように、印融が書写しなければ今日に残らなかった貴重な史料も存在する。

悉曇関係では、『悉曇十八章聞書』『悉曇問答』『悉曇論議私抄』を書写する。さらに『悉曇滅罪鈔』『悉曇初心問答鈔』を幼弟子竜王丸のために記し、松寿丸にも書写し与えている。いずれも難解な梵語学を分かり易く弟子たちに伝えるためのものである。これらは、近世に入っても書写・出版されている。また、梵語と漢文の発音法等を体系化し、文明頃には『梵漢反音抄』『梵漢配合』『三四反切私抄』を記す。さらに『十八章反音私抄』を松寿丸の稽古のため、『八転声私抄』を仙順房覚融のために記し勉学を励ましている。

漢詩文・文法等に関しては、般若経の文筆を註した『秘鍵文筆抄』、詩文等の作成のための初学者向けの書『作文略集』、平安時代の文章論を継承した『文筆問答鈔』、『三教指帰』の文法及び句法を解説した『三教指帰文筆解知鈔』、『性霊集』の文法及び句法を解説した『性霊集私分文句』、各流派のヲコト点を図示した『真俗二点集』等がある。

このうち『文筆問答抄』の奥書には、弘法大師は序において、雑文体(表白、諷誦、願文、奏状、勅答等で七句からなる)を用い、頌文には作文体(詩、頌、碑銘、歌詠等で七言・五言からなる)をとっていることを最近の学者は知らず、とても嘆かわしいことだと述べる。さらに破戒の禅僧や肉食妻帯の儒学者は、大師の文筆法を知っていて褒美し信仰さえしている。これに対して、真言宗の学徒はまさに燈台下暗しであると嘆いている。

密教図像には『両部曼荼羅私抄』がある。これは曼荼羅研究の必読書で、現在でも使用されている。

辞書類であるが、永正5(1508)年には『塵袋』を幼弟子たちのために書写している。これは、類別の辞書で、印融書写本が伝存する唯一のものである。印融が書写しなければ今日に伝わらなかったものの一つである。また古書・篆書・隷書等の書体の成り立ちや使用方法を記した『諸書得解鈔』も著しているのである。

◆『杣保隠遁鈔』の完成と晩年

こうした印融の書写・著作活動の最終段階が、真言宗義の大成書とも言うべき『杣保隠遁鈔』20巻の著作である。永正11(1514)年6月、武蔵国杣保明王堂(東京都青梅市柚木)において著作を開始し、同12年正月19日に浦和延命寺において完成させている。

印融は同16年8月15日に85歳で示寂する。同年8月8日には青梅即清寺で、秀尊に西院流の法脈を授けている。これは印融示寂の1週間前であることから、秀尊が印融最後の付法の弟子となったものと思われる。

印融の墓は、観護寺と三会寺に存在する。辞世の歌は「生まるるも阿字より来れば死とても本の不生に帰りこそすれ」が有名だが、もう一首、高野山宝寿院印融画像裏書に「みな人は阿字より出て阿字にいるきたらすさらす本の宮古路」と詠まれている。

印融は大変読書を好み、外へ出かける時にはいつも小牛に乗り、鞍には文卓をつけ、牛の角には経巻を懸け、お経を唱え、詩歌を口ずさんでいたと言う(『本朝高僧伝』)。三会寺には牛に乗った印融の画像(駕牛図)が所蔵され、ありし日の姿を今に伝えている。