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日本近世は仏教の時代?

東北大学術資源研究公開センター助教 曽根原理氏

2018年6月29日付 中外日報(論)

そねはら・さとし氏=1961年、東京都生まれ。東北大大学院博士課程修了。博士(文学)。東北大学術資源研究公開センター助教。専門は日本近世思想史、アーカイブズ学。著書に『徳川家康神格化への道』『神君家康の誕生』『徳川時代の異端的宗教』。担当した主な展示に「東北大学の至宝―資料が語る1世紀(東北大学100周年記念展示)」「マンボウ青春記の仙台(東北大学史料館2009年度企画展)」など。

近年、天海(1536~1643)という僧侶の知名度が急上昇しているように思われる。彼は日光東照宮に徳川家康を東照大権現として祀ったことで知られるが、一方で明智光秀との同一人説など、伝奇・伝承的な方面で取り上げられることも多い。小説などでは超人的な活動が描かれたりするが、実際はどうだったのだろう?

彼の実像が分かりにくい理由の一つは、著作がほとんど無いことにある。わずかに『東照社縁起』全8巻(日光東照宮所蔵、国指定重要文化財)が残されたが、これが難解。和漢の古典の引用が多く、また元の文献をふまえて書かれているため、古典や仏書の基礎知識が無いと読み解けない。しかも単なる知識だけでなく、半ば研究段階である中世の神道思想の理解が求められる。私が最初に同書解読を試みたのは20年以上前だが、今でもしばしば新たな発見がある。

そのためか天海の存在意義は、個別の事績(東照宮や輪王寺門跡の創設に向けた活動、天台宗教団の再編など)によって判断されてきた。政僧としての扱いと言える。当然、彼個人の思いは不明・不問のままで、それはフィクションの世界でしか扱えなかった。しかし私は、思想家としての天海に改めて注目したい。なぜなら彼は、前代の宗教思想の継承者として活動し、最大の業績は日本を仏教国にしたことにあるからだ。従来指摘されたことが乏しく、分かりにくいかもしれない。少し説明しよう。

現代の日本人の宗教意識においては無宗教の割合が高く、さらに今後も増加傾向にあるといわれる。しかし、葬儀や年中行事(初詣や節分など)を見る限り、人々と僧侶(寺院)や神職(神社)との縁は、今なお浅くない。世代や地域による差は大きいとしても、時に読経を聞いたり、お祓いを受けたりすることは、決して珍しいことではないだろう。では、いつからそれが普通のことになったのだろうか?

専門の研究者の間では、天皇や将軍から一般庶民に至るまで、神道と仏教が浸透し定着したのは近世初期と考えられている。目立った画期となるのは「寺檀制度」(国民全てが特定の寺院の檀家となる制度)の定着であるが、その前に国のトップが「日本は仏教国」と宣言したことは、意外と知られていない。実は対キリスト教を念頭に、豊臣秀吉は外国宛書簡に神道・仏教・儒教の三教一致を日本の宗教的立場として挙げ、徳川家康が発令した教禁令にも「神国」と並び「仏国」の主張がある。その出来事の帰結を示す事件の一つが、徳川家康の死後に勃発した神号論争であった。家康を神に祀るに際し、仏教と一線を画した「唯一宗源神道(=吉田神道)」に基づき、「大明神」を主張したのが金地院崇伝や神龍院梵舜であった。それを阻止し、神仏習合の神道(山王一実神道)に基づく「大権現」とするべく、二代将軍(徳川秀忠)を説得し成功したのが天海である。家康の神号が「東照大権現」に決定し、神仏習合という国家方針が公認されたことが、寺檀制度をはじめ、近世の宗教秩序を作っていく基本になった、と私は考える。明治政府の「神国」は、神道に特権的な立場を付与したが、徳川将軍はその選択肢をとらなかったのである。

ひと昔前の日本思想史の通説では、次のように語られていた。「中世までは仏教の時代だが、信長や秀吉の弾圧と再編により近世仏教は安定し、堕落した。林羅山や山崎闇斎は、初めは僧侶だったが、仏教よりも儒教に魅力を感じ還俗して儒学者となった。そのように、近世思想の中心は儒学(朱子学・徂徠学など)となり、そこから近代につながる思想が生まれた」と。

しかし現在は、さまざまな研究の進展により、近世も仏教が一定の役割を果たしていたこと、仏教がもっとも国民の間に定着したのは近世だったことが解明されている。そうであるなら、近世の仏教や神仏習合思想のさらなる実態解明が望まれる。今までも、武士道の精神を説いた沢庵(1573~1646)や、民衆と共に歩んだ良寛(1758~1831)など、近世の著名な仏教者が知られていないわけではなかった。しかし、より包括的に徳川時代の宗教の全体像を把握できないだろうか? どの程度正しいかは議論があるものの、私たちは「鎌倉仏教」(親鸞、道元や日蓮)と聞けば、新たな民衆仏教の誕生を連想する。そのように「近世宗教」全体のイメージを描くことを、検討できないだろうか。

そういう観点から私は、近世初期宗教界の重要人物として天海を考えている。では、その後はどうなったのだろう。最近注目しているのは、乗因と徧無為である。まず乗因(1682~1739)について触れるなら、彼は長野県の戸隠山(天台宗の勧修院)の住職となって、独自の宗教説を主張した人物である。自らは天海の法曾孫(=ひまご弟子)であると称し、天海の教えに戸隠修験の要素を加えた新たな神道(修験一実霊宗神道)を唱えたが、配下の僧侶たちの反発を受ける。彼らが天台宗の本山(寛永寺)に訴えた結果、江戸で寺社奉行を務めていた大岡忠相らの裁きにより、遠島処分を受けて流刑地で生涯を終えた。その主張は長らく、天海以降の天台宗教学から踏み外した異端説として扱われていた。しかし私は、天台宗教団は西暦1700年前後に大きな変化があり、個人の内面や自律性を優先する口伝教学から、外形を重視し秩序を重んじる方向に転換したことを確認した。悟った者同士にしか分からない独自の内面的世界を重んじる中世教学は、誰にでも分かる形式や外見で判断される近代的価値観に克服されてしまったのである。天海の後継者を目指した乗因は、時代の変化の中で異端となり排除されたと考えられる。そこに近世から近代へ、変化していく宗教界の様子が読み取れる。

しかし、全ての者が乗因の道をたどったわけではない。時代と折り合いをつけながら、天海の教えの一端を伝えた一人が徧無為(1681~1764)であった。彼は江戸やその郊外を拠点として民間で、聖徳太子の秘伝(自称)に基づき独自の教えを説いた。乗因とほぼ同時代を生きながらも、寛永寺に所属する僧侶を兄に持ち、天台宗教団とは終始友好的だった。さらに貴顕に交わり、生涯で四百名余の信者を得たと伝えられる。彼が晩年に苦心の末に創建した善明寺(東京都府中市本町)には、関係する文書類も伝来しており、現在は府中市史編纂事業で調査が進められている。また、彼の思想を探る手がかりになるのが大量に残された著作である。その一部を閲覧し、人の心を図像で描き説明するなど、守るべき倫理や道徳を宗教の言葉で検討しようとする志向が強く感じられた。

述べてきたように、日本近世宗教の研究史は、ようやく本格的に仏教や神仏習合思想の解明に意義を認める段階に至っている。しかし、全体の見取り図は貧弱で、着手されていない資料は多い。私は最近、オランダの研究仲間(M.Buijnsters氏)に、徧無為に関わる戦前の研究者の三田村鳶魚などの研究文献を教わり驚いたことがある。思いがけない方面に、広がりや新たな発見があるのかもしれない。手つかずの資料の量を考えると気が遠くなる。一人でも多く、関心のある方々が現れることを願っている。