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明治維新150年、長州藩と靖国神社

萩博物館特別学芸員 一坂太郎氏

2018年6月29日付 中外日報(論)

いちさか・たろう氏=1966年、兵庫県芦屋市生まれ。大正大文学部史学科卒。現在、萩博物館特別学芸員、至誠館大特任教授、防府天満宮歴史館顧問。著書に『明治維新とは何だったのか』『フカサクを観よ』『語り継がれた西郷どん』など。テレビ出演、講演も多い。
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東京の靖国神社は、戊辰戦争の戦没者の霊を祀るために創建された。その源流のひとつが楠木正成を祀る「楠公祭」にあると、私は考えている。

正成は河内国赤坂の武将で、後醍醐天皇のもとに馳せ参じ、鎌倉幕府打倒、建武の新政(中興)に功を立てた。しかし建武3(1336)年、叛旗を翻した足利尊氏と摂津国湊川で戦って敗れ、「七生滅賊」を誓い自決する。7回生まれ変わってでも、賊を滅ぼすという凄まじい決意だ。

軍記物語『太平記』では正成を「弓矢を取って名を得たるもの」として、その名将ぶりを絶賛する。だが、足利や徳川といった武家政権にとって正成は、不都合な存在でもあった。天皇と結び付けば、幕府打倒の大義名分が得られるという危険な理屈を与えてしまう可能性もあるからだ。だから大衆人気は高まっても、湊川の墓は粗末なものだった。

しかし元禄5(1692)年、水戸藩主徳川光圀が湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻む新たな墓碑を建てたことで、扱いは一変する。水戸徳川家は徳川御三家のひとつだが、皇室を敬う気風が強い。『大日本史』編纂を始めた光圀も、熱烈な正成崇拝者だった。

徳川方がお墨付きを与えたので、正成は「忠臣」としての評価が定まる。山陽道に近い墓所は名所となり、多くの旅人が参るようになった。

ところがそれから百数十年がたち、徳川政権が揺るぎ始めると、正成の墓は幕府打倒の精神的シンボルと化し、多くの「勤王の志士」が訪れるようになる。

特に長州の吉田松陰などは、肉体は滅んでも、志は消えないという死生観を、正成から学んだという。松陰は、自分と正成の心は数百年の時空を越えて、結び付いていると信じた。そして、萩の松下村塾に「七生滅賊」の軸を掛けて後進を育成した。

「安政の大獄」に連座した松陰は安政6(1859)年、30歳で江戸で処刑されたが、辞世の「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」は、正成の死生観そのものである。

松陰ら「殉難者」に
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長州藩毛利家は皇族の流れをくむとされる大名で、もともと「尊王」「勤王」が盛んだった。

そのため幕末になると、攘夷(外国排撃)を唱える孝明天皇側に立ち、開国した幕府を非難する。「楠公湊川の決意」をスローガンとし、関門海峡を通航する外国艦を次々と砲撃した。正成のように勝敗は度外視して、天皇のために戦うのが、臣下の道というのだ。そして亡き松陰を、尊王攘夷のシンボルとして祭り上げてゆく。

ところが、長州藩の暴走を一番憂慮したのは天皇だった。そのため文久3(1863)年8月18日、政変が起こり、長州藩は過激派の公家7人(七卿)とともに京都から追放される。長州藩主は天皇の前での弁明を望むが、京都守護職の会津藩が激しく反対して、京都にすら入れてもらえない。

逆境に立たされた長州藩では元治元(1864)年5月25日、藩主父子や支藩主も列席するという大掛かりな楠公祭を周防山口で行い、士気を高めた。なにしろ正成は、「勤王の志士」の大先輩なのだ。

注目すべきは、その際、正成とともに松陰ら16人の長州藩士の霊を「殉難者」として祀ったことだ。藩の政策に従って命を落とせば、その霊は正成や松陰と同じ祭壇で祀られ、第二、第三の正成として藩主までが礼拝してくれるのである。

続いて長州藩は同年7月、失地回復を目指して京都で「禁門の変」を起こしたが敗れ、「朝敵」の烙印を押された。以後、4カ国艦隊下関砲撃事件、藩内戦、2度にわたる長州征伐などと苦難が続く。

庶民も軍事力として動員した長州藩では、夥しい数の戦死者を出した。その霊は仏式ではなく、藩内20カ所に設けられた招魂場に「神霊」として祀られた。「殉難者」の魂を招いて慰める祭事が、春秋には盛大に催された。

一方、身近で正成的な「殉難者」が急増すると、長州藩では肝心の正成への興味は薄らいでゆく。かつては藩内に楠公社を建てる計画もあったが、招魂場創建ラッシュの中で立ち消えてしまった(なお、正成顕彰の流れは、明治になり新政府が墓所西隣に湊川神社を創建し、別格官幣社とする)。

やがて大の長州藩嫌いだった孝明天皇が崩御すると、情勢が変わる。16歳の明治天皇により慶応3(1867)年12月、王政復古の大号令が発せられ、幕府権力は消滅した。復権を果たした長州藩は天皇を戴く新政府の一翼を担い、薩摩藩とともに「維新の勝者」となる。

「朝敵」も靖国合祀
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続く戊辰戦争は、新政府の権力基盤を固めるための内戦であった。戦火は京都郊外から関東、東北、北海道へと広がってゆく。江戸城に乗り込んだ新政府軍(官軍)は明治元(1868)年6月、幕府権威の象徴だった西の丸大広間で、味方の戦死者の招魂祭を行った。敗者のプライドを踏みにじる行為だったことは、言うまでもない。

では、これが日本古来の慰霊の方法だったのかというと、それは違う。たとえば「禁門の変」後、孝明天皇は知恩院と黒谷で敵味方の区別なく、戦死者供養のための於施餓鬼を行わせた。わずか、数年前のことである。

明治2(1869)年6月、東京九段坂上に東京招魂社が創建され、戊辰戦争における新政府軍側の戦死者の霊3588柱が合祀された。のちの、靖国神社である。創建に尽力したのは招魂場づくりのベテランである、長州出身の木戸孝允と大村益次郎だ。

敵である幕府方を「朝敵」と決めつけ、靖国神社から徹底的に排除したのは、一種の見せしめづくりである。会津落城の9月22日を「大祭」の日と決めるなど、敗者に対する屈辱的な仕打ちを国家レベルで行った。死者に鞭打つような行為は、どうも西洋的な感覚であり、悪しき近代化の産物のような気がしてならない。

明治20年代になると土佐・長州・薩摩など、勝者側の戊辰戦争以前の「殉難者」の神霊も、続々と靖国神社に合祀されてゆく。

そこで矛盾が噴出したのが、かつて孝明天皇から「朝敵」の烙印を押された長州だった。合祀の基準は、天皇への忠誠度だ。にもかかわらず長州藩の場合、「朝敵」当時の戦没者を含む600人が、「殉難者」として合祀されてしまったのだ。

納得できないのは、「朝敵」を征伐せよと動員され、長州藩と戦って死んだ者の遺族たちだ。福山・浜田藩の関係者は陳情して、ついに合祀を実現させた。会津藩も「禁門の変」の際、御所を護って戦死した32人に限り、合祀が認められた。

こうして、攻めた側も攻められた側も祭神として祀られるという、異例の事態が生まれた。しかし、だからと言って敵味方の区別無く祀るというルールが確立されたわけではない。明治10(1877)年の西南戦争で「賊」として死んだ西郷隆盛も、「維新の功臣」と評されるが、合祀されていない。

明治維新百五十年を、政府はイベントとして、ひたすら美化して盛り上げたいようだ。しかし内戦だけに、いまだ癒えない傷も多い。反省も含めた、さまざまな視点から日本の近代化を考察する好機にしたいものである。