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京都の寺院に咲いた池坊のいけばな

池坊中央研究所主任研究員 細川武稔氏

2018年7月20日付 中外日報(論)

ほそかわ・たけとし氏=1973年、富山県生まれ。東京大大学院人文社会系研究科で博士号取得。専門は日本中世史、寺院史。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、2010年から池坊中央研究所に勤務。著書に『京都の寺社と室町幕府』(吉川弘文館、2010年)。

いけばなの根源であり、京都の中心部に位置する六角堂(正式寺号は頂法寺)の住職を務めるのが、華道家元池坊である。池坊会館3階のいけばな資料館(京都市中京区)において、今年2月、「幕末~明治時代の花人 近藤春彦―家元に仕えた生涯―」と題する特別展示が開催され、筆者が展示品の選択や調査研究を担当した。

近藤春彦(1808~82)は、伊予(愛媛県)小松藩の武士の家に生まれたが、早くから華道を志し、上洛して六角堂に住み込み、華道家元四十一世池坊専明・四十二世池坊専正に仕えた。名乗りや称号には、泰輔・大和・法橋などが確認できる(本稿では春彦で統一)。長男の近藤徳太郎は、織物業の近代化に尽力し、足利工業高校(栃木県)の初代校長を務めたことで知られる。

春彦は、花をいけるのに堪能だっただけでなく、事務の面でも大いに活躍したため、池坊所蔵の様々な歴史資料に登場する。特に、京都の寺院に池坊の花が飾られた際には大きな役割を果たしているので、順に紹介していきたい。

まず、江戸時代後期の安政6(1859)年、臨済宗の妙心寺で、開山である関山慧玄の五百回忌法要が営まれ、依頼を受けた池坊が立花(りっか)・砂物(すなのもの)・生花(しょうか)を調進した。立花とは多くの枝で大自然の姿を再構成する様式、砂物は器に砂を敷き詰める様式、生花は数少ない枝で植物の本質を見せる様式である。

この法要では、霊前や仏前だけではなく、参加する僧侶・公家・武家の宿所になった塔頭にも花が飾られたため、その数は20瓶を超えた。当時の建物は多くが現存している。

『妙心寺開山国師五百回大法会立華生花次第』(資料の所蔵先は、特記しない場合は華道家元池坊総務所)によれば、近藤春彦は池坊の「役人」として、妙心寺側の「花掛り」を務めた大法院と連絡を取りつつ、場所や花器の下見をしたり、「妙心寺山」における「幹切」(材料となる木の伐採)をおこなったりした。

「御忌詣」で差配も

当時、街中には花屋が存在していたが、太い幹は山に入って探し求めたのである。「妙心寺山」というのは寺領内の山を指し、この場合は境外塔頭である龍安寺の裏山であった。寺領であれば、費用の節約になるという意図もあったらしい。

また、『立華並活花之個所』によると、春彦は大方丈裏之間の砂物と退蔵院方丈の生花を担当している。砂物は「横幅三間二尺」(約6メートル)という大きさだったという。

次は、万延2(1861)年、浄土宗総本山の知恩院でおこなわれた開祖・法然の六百五十回忌法要である。池坊は毎年、法然の忌日法要で花を献じており、それは知恩院所蔵の『日鑑』でも確認できるが、節目の年にあたって、通常より多くの花を調進することになったのである。

近藤春彦はここでも「池坊役人」として差配にあたったことが、『智恩院圓光大師六百五十回御忌勅会御花調進之姓名』からわかる。池坊の立花または砂物が飾られた建物は、本堂のほか、集会堂・御廟堂・勢至堂・輪蔵・三門・阿弥陀堂・茶所・小方丈・大方丈・山亭・良正院(塔頭)・大対面所と記されている。現代風に言えば、知恩院の境内を借りて池坊の花展が催されたといった感がある。

正月の法然の忌日法要(現在は4月)は「御忌詣」と呼ばれ、京都の人々にとっては一年の行楽初めという意味合いも持っていたから、多くの参詣者が堂内で池坊の花を目にしたことであろう。

さて、よく知られているように、幕末になると京都は再び政治の表舞台に登場する。それを象徴するのが、二百数十年ぶりの将軍上洛である。そして文久4(1864)年、前年に続いて十四代将軍徳川家茂が上洛した時、池坊の出番がやって来た。東本願寺(真宗大谷派)への将軍御成が決まり、同寺の枳殻邸(渉成園)に花を飾ってほしいという依頼を受けたのである。

『東本願寺御花之記』によれば、当初は2月7日に御成がある予定で、近藤春彦が下見に行くなどして生花をいける準備を整えていたが、御成が急遽延期になってしまった。その後、10日に東本願寺の使者が来て、御成は12日に決まったと告げたが、同じ日に知恩院への御成も決まっており、池坊はそこでの立花をすでに請け負っていた。東本願寺は徳川家康の後援で創建された寺、知恩院は京都における徳川家の菩提所であり、ともに上洛した将軍が訪れるべき場所であった。

使者が来た時、外部との交渉全般を担当していた春彦が知恩院に出向いていたため、家元の池坊専正が応対して依頼を一旦断ったが、ちょうどその時春彦が帰ってきて交渉した結果、生花を1瓶のみいけることになった。

翌11日、枳殻邸に飾られたのは、立花1瓶および生花6瓶と記録されている。前日の交渉結果とかなり異なっているが、将軍を迎えるのに生花1瓶ではよくないという判断があったのだろうか。立花は春彦の手になるもので、最終的に専正が「見分」(検分)したものであった。専正は同日に知恩院の立花をたてており、役割が分担されたのである。

このあと、同年7月のいわゆる「蛤御門の変」で六角堂は焼失し、再建されないまま明治維新を迎えることになった。京都の市街地の大半が焼けた結果、材木の値段が高騰したり、政権交替があったために再建の許可を取り直す必要が生じたりするなど、様々な苦難があったようだ。

作品図に名前記載

京都にとって、維新に伴う最大の衝撃は東京遷都であった。千年の都から一地方都市に転落するかもしれないという危機感の中、明治4(1871)年、有志によって京都博覧会が開かれた。新旧の文物を展示したこの催しはある程度の成功を収め、官民一体の組織を整備した上で、翌明治5(1872)年、あらためて第1回と銘打って京都博覧会が開催された。

『博覧会立華之記』によれば、この第1回京都博覧会で池坊への出瓶依頼があった。折しも六角堂では、再建に向けた勧進の意味も込めて本尊如意輪観音像の「為拝」(御開帳)がおこなわれており、住職の池坊専正が多忙だった。よって、近藤春彦と伊勢(三重県)出身の門弟田中圓次郎が、松一色の砂物を作り上げていった。一色とは、作品の主要な部分が一種類の花材で構成されることで、池坊では松をはじめ七つの一色物が定められている。

最終的に専正が仕上げた砂物は、会場となった西本願寺(浄土真宗本願寺派)の対面所に飾られた。書院として国宝に指定されている建築である。版画による作品図が残っており、そこには専正に加え、春彦と圓次郎の名も記されている。

以上、池坊による献華の様子を紹介してきた。池坊が住職を務める六角堂が天台宗の寺院である(現在は単立)一方、献華先の寺院については宗派を問わないことが特徴として挙げられる。これは門弟についても同様であるが、『永代門弟帳』等の門弟の記録を見ると、真宗系の割合が比較的高いように思われる。これは、親鸞が六角堂に参籠し、そこで得た夢告が開宗のきっかけになったことと関係があるのではなかろうか。

今回の展示を準備する中で、家元をそばで支える一人の門弟の活動が明らかになったのは、大きな収穫であった。明治時代初期のものと思われる席札(作品に添えて置く札)の中に、表面に「家元代華」、裏面に近藤春彦の名が書かれたものがある。家元から信頼されていた春彦が、代理として花を担当した証拠である。家元と門弟が一致協力することによって、池坊のいけばなは発展してきたといえよう。