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土塔発掘調査からみる行基の活動

堺市文化財課学芸員 近藤康司氏

2018年9月5日付 中外日報(論)

こんどう・やすし氏=1965年、大阪府生まれ。関西大文学部史学地理学科卒。現在、堺市文化財課学芸員。日本考古学専攻。専門は古代寺院と瓦の研究。

奈良時代の高僧行基は、聖武天皇の東大寺盧舎那仏(大仏)建立に協力したことが小学校の社会科の教科書にも登場しており、その名を知らしめることとなっている。では、なぜ、行基が聖武天皇に登用されるに至ったかを出身地である堺市中区に自らが建立した大野寺・土塔の発掘調査成果から探ってみたい。

行基は生涯、通称四十九院とよばれる寺院建立や、架橋・造池・布施屋(税運搬者などのための宿泊施設)建設などの社会事業を多数行っているが、これらは関連した事業であると考える。この行基建立寺院の一つに大野寺があり、この大野寺の塔が土塔である。土塔は堺市中区土塔町に所在し、遺跡名が町名にもなっている。平成10(1998)年度から史跡土塔の発掘調査が開始され、その成果を基に史跡整備工事が行われ、平成21(2009)年に完成した。以下では、その発掘調査で明らかになった事実を紹介し、そこから考察できることを述べたい。

土塔は、文字どおり土で造られた塔である。土を盛る際には、30センチ四方の粘土の塊を並べて型枠とし、その内側に土を盛り上げていった。調査の結果、この粘土の塊の列が13本確認できたことから、十三重塔であることが検証できた。塔身は平面正方形で、いわゆる段塔の形式である。しかし、塔頂にあたる十三重の粘土塊の列をみると、基部が円形であることがわかった。塔頂付近から相輪などが出土したことから、木造の建築物があったことが想定でき、形状は八角形の建築物を想定した。また、土塔の十三重の塔身の下には、基壇とよばれる土台の部分もみつかり、周囲には割った瓦を積んでいた。この基壇がみつかったおかげで、土塔の規模が一辺53・1メートルに復元できた。当時は、天平尺という尺度が使用されており、1尺が29・5センチで、180尺となる。また高さは、現況では8・6メートルであるが、13重目にあたる建築の高さを考慮すると10メートルは超えていたであろう。

国内初の本格寺院である飛鳥寺は、丸瓦と平瓦を用いた本瓦葺きで、以後、寺院には本瓦葺きが採用された。土塔は、盛り土で建立されたにもかかわらず、各段の平坦面を屋根に見立て瓦を葺いている。瓦はその数、合わせて6万7800枚と試算された。参考として挙げておくと、唐招提寺の金堂が4万4千枚、東大寺大仏殿が10万枚である(現在の堂宇の修理時)。

発掘調査で出土した瓦には、文字を記したものがあり、大きく2種に大別できる。まず一つは、軒丸瓦の瓦当面(蓮の紋様が描かれる正面にあたるところ)に「神亀四年□〈丁〉卯年二月□□□〈三日起〉」(□は文字が欠けている部分。〈〉は復元)と記されたものが2点出土した。この年号は、平安時代の安元元(1175)年に記された『行基年譜』とよばれる、行基の事績を記した記録の大野寺の創建年代の記載と合致する。文献資料に記された記事と、発掘調査で出土した考古学的な資料の内容が一致したことで、大野寺・土塔の建立年が727年に確定したといってよい。

次に、もう一つの瓦への文字の記載は、焼成前の丸瓦、平瓦にヘラ書きで人名が記されたものである。現在までに、約1250点が出土している。この人名瓦は、名前を詳しくみると、僧尼関係、姓を持つ氏族、持たない氏族に分類できる。僧尼名は、さらに優婆塞、優婆夷、童子に分類できる。姓というのは、国家から氏族の中でも有力な氏族に与えられる称号で、臣や連、宿禰などがある。また、女性名が一定数みられることから、女性も知識として参加していたことがうかがえる。

では、なぜ瓦に名前を書いたのか。行基が土塔を建立する際に、参加した人々が協力した証しとして名前を記したと考える。要は、土や瓦を運ぶといった労働力の提供、あるいは食料や金銭などを寄進した人々もいたであろう。このように仏道に寄進を行い、結縁を結ぶことを仏教用語で知識という。出土した人名瓦の枚数以上の千人以上の知識の人々が土塔建立に集まったであろう。『新撰姓氏録』という文献には、氏族がどの地域が本拠地であるかが記されている。当時の氏族名の氏(現在でいう名字)は地名に通じる名前が多く、これを参考にみると、やはり土塔が建立された和泉国(建立時は和泉監)大鳥郡の氏族が多い。一方、摂津国北部といった遠方の氏族名もみえる。このことから、土塔建立にあたっては、近隣だけでなく、遠方からも集まり知識の集団を結集していたことがわかる。ただ、土塔建立以前に、すでに各地から大鳥郡に集って来ていたという考え方もある。このように、行基の知識というのは土塔だけではなく、四十九院の建立や、社会事業を行う際にも結成されていたと考える。

次に、土塔建立の意義について考えてみたい。塔を建立することは『造塔功徳経』や『造塔延命功徳経』をみると、塔を建立することで寿命延長、天人界に生まれることができる、無間の罪を滅ぼすことができる、菩提を得ることができるといったことが記されており、知識たちは土塔建立に参加することで、このような功徳を得ることを求めたのであろう。しかし、行基は四十九院という多くの寺院を建立しながら、土塔のような建築は大野寺のみに建立した。なぜか。行基は、平城京近辺で活動が僧尼令違反として弾圧されたため、京を出て郷里の和泉へ戻った。そこで、始めたのが社会事業で、土塔も和泉へ戻って間もなく建立している。土塔は、これから始まる行基と彼を支える知識集団の活動のいわばシンボルとしての位置づけができるのではないか。さらに、土塔を建立したのは大鳥郡土師郷という土師氏の本拠地である。土師氏は古墳時代以来、古墳の築造など土木技術に長けており、土塔出土の人名瓦にも土師氏のものが多数出土している。つまり、行基の知識の中でも大檀越だったであろう。行基の土木技術を伴う社会事業においては土師氏の助力は欠かすことができなかったのだ。このように、土師氏の本拠でもある当地の建立が相応しかったのであろう。

また冒頭に述べた、行基はなぜ塔を土で造ったかについて答えを考えてみよう。木造の塔というのは、建築の専門的な知識が必要だ。しかし、土であれば建築の専門的な知識がなくても、誰もが参加できる。まさに、知識全員が建立に参加できる形態の塔を建立したかったためであったということができよう。

では、土塔を建立することで、行基と知識たちは何を求めたのだろうか。文字を記した瓦の中に、先祖を追善する内容のものがある。当時の寺院建立は、先祖の追善というのが人々の大きな目的であった。さらに、文字瓦ではないが、円筒状の須恵器の外面に罫線を引き、願文を記したものが出土しており、これは国内では他に例をみない遺物である。この文言の中に、「天皇尊霊」という文字がみえる。これは、歴代天皇の霊の安穏や極楽往生を願ったものではないかと解釈されている。これは内容や文字の美しさからして、貴族クラスの人物が書いたものと思われる。土塔建立には、このような願いが込められていたと思われる。

最後に、行基の思想は福田思想とよばれ、これは善い行為の種子をまいて功徳の収穫を得る田地の意味で、仏教社会福祉の理念を知る語である。大乗仏教では菩薩(求道者)の智恵と慈悲に基づく利他行が重視されたので、福田思想は仏教徒の社会的実践の基本となったのである。行基の行った社会事業はまさに、自ら事業に参加することで民衆のために力を尽くす福田そのもので、これにより多くの知識たちは仏教の功徳を得ることを希求したのであろう。ひいては、この行基の知識の原理は、聖武天皇の東大寺盧舎那仏建立の際にも引用され、行基にとっては、知識活動の集大成といっても過言ではなかろう。