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ターミナルケア論に求めたいもの ― 宗教の関わり方

大正大教授 曽根宣雄氏

2018年9月7日付 中外日報(論)

そね・のぶお氏=1964年、山梨県生まれ。佛教大文学部仏教学科卒業、同大大学院修士課程修了、大正大大学院博士課程単位取得満期退学。現在、大正大仏教学部仏教学科教授(仏教学科長)、浄土宗総合研究所研究員。専門は、法然浄土教及び法然浄土教と社会実践。著書に『東洋における死の思想』(共著)、『浄土宗の教えと福祉実践』(共著)など。

現在、ターミナルケアに関しては多くの研究がなされ、ターミナルケアと宗教(仏教)の関わりについても数多く論じられている。しかし、一部のターミナルケア論を眺めていると「望ましい死」や「死の受容」ということに、関心が払われ過ぎているようにも感じられるのである。すなわち、ターミナル期の患者さんがよい死を迎えるための「あるべき姿」論が登場してきてしまっているのであり、そのツールとして仏教(宗教)が用いられることが少なくないのである。もちろん善意から発生しているものであることは否定しない。

しかしながら、より良いものを模索するが故に、無意識のうちにあるべき姿を求めてしまっている場合もあるように見受けられるのである。こういった方向性は「望ましい死」や「死の受容」に到達するための目指すべき固定的なレールを敷くことになり、ターミナルケアの場自体が修行の場になってしまう危険性をはらんでいる。

「望ましい死」と「望ましくない死」、「死を受容した最期」と「死を受容できない最期」、こういった対比で語られる際に、誰もが前者でありたいし、あってほしいと願うことであろう。しかしながら、現実はどうなのだろうか。実際に私が遭遇した親しい方々の死や身内の死というのは、生に対する執着や愛する者と離れたくないという思いの中でのものであり、言うなれば無念さを抱きながらの死であった。そこでは、残された家族も割り切れなさを抱いていた。こういった現実を等閑視することは、あってはならないことである。

河合隼雄氏は、『岩波講座転換期における人間9 宗教とは』において、近代の問題について次のように指摘している。

近代の特徴は、何かにつけ、「進歩」、「発展」が魅力ある言葉としてもてはやされ、人間は何らかの意味において、進歩し発展することを目指そうとしてきた。このことは確かに意味深いことである。しかし、そのような直線的な発達段階のモデルにのみ縛られているために、われわれは実に多くの人生の多様な姿を見逃してきたのではないだろうか。

私たちは「進歩」「発展」といった方向性に執われ、人間を向上していく存在として一面的に捉えてしまい、人間の多様性を肯定していく眼差しを失ってしまっているのではないだろうか。「望ましくない死」や「死を受容できない最期」を迎えた人々もまた、現実の人間のあり方の一つなのである。

人間の裏側や、マイナス要素に着目することは、私たちにとって気が重く憂鬱なことであり、できれば、触れずに済ませたい問題である。しかし、人間の本音を直視せずに「生死」の問題を語るというのは、現実に生きている私たちの姿を離れた理想的な人間観を前提にして議論するものと言わねばならない。人間の裏側やマイナス要素こそ注目すべき点であり議論すべき課題であろう。人間である以上、(特殊な状況以外は)生に対して執着があって当然であり、それが私たちの現実の姿である。

法然上人の『逆修説法』第一七日には次のようにある。

まず、阿弥陀仏は衆生の臨終正念のために来迎されます。よく言われるように病苦が身にせまってまさに死に臨む時、必ず境界愛・自体愛・当生愛の三種の愛心が起こります。けれども阿弥陀仏が大光明を放って行者の前に現れる時、かつてない事であるので阿弥陀仏に対する帰敬心の以外の思いは起こりません。したがって三種の愛心は無くなり再び起きることはありません。それは仏が行者の元に近づいて加持護念されるからです。(中略)したがって、衆生が臨終時に正念に至ったから来迎があるのではなく、来迎によって臨終に正念に導いていただくということは明らかなのです。(筆者訳)

三種の愛心とは「境界愛―愛する者・親しい者・家屋・財産等に対する執着心、自体愛―今の自分のままで生きていたいという執着心、当生愛―死後どうなるのかという不安」であるが、法然上人は阿弥陀仏が、これらを滅するために来迎するとしている。三種の愛心は、現代の私たちにも通じることであるが、衆生がこういった執着心を起こしてしまうものの、阿弥陀仏の来迎によって三種の愛心は亡ぼされ再び起こることはないとしている。

こういった法然上人の説示は一貫しており、『浄土宗略抄』には「またまめやかに往生のこころざしありて弥陀の本願を憑みて念仏申さん人、臨終の悪き事は何事にかあるべき。その故は仏の来迎したまう故は行者の臨終正念のためなり」とあり、正念来迎(亡くなり行く者が、心の乱れのない境地に入れば阿弥陀仏が来迎される)ではなく、来迎正念(亡くなり行く者を、心乱れのない境地に導くために阿弥陀仏は来迎される)ことを明らかにされている。つまり、亡くなり行く者が自らの努力で正念に入ることの困難さを踏まえつつ、阿弥陀仏の導きによって誰もが正念に導かれるとしているのである。

法然上人は『往生浄土用心』において「ただし人の死の縁は予ねて思うにも叶いそうらわず。にわかに大路、径にて終る事もそうろう。また大小便痢のところにて死ぬる人もそうろう。前業逃れ難くて、太刀小刀にて命を失い、火に焼け水に溺れて命を滅ぼす類多くそうらえば、さようにて死にそうろうとも、日ごろの念仏申して極楽へ参る心だにもそうろう人ならば、息の絶えん時に、阿弥陀、観音、勢至来たり迎えたまうべしと信じ思召すべきにてそうろうなり」と述べ、人間の最期は思うようにならないものであることを指摘した上で、どのような状況であっても、日頃念仏を申して極楽往生を願っていた人であれば、命終の時に阿弥陀仏・観音菩薩・勢至菩薩は、来迎してくださると受け止めるべきであるとしている。

このように法然上人の説示からは、自らの力によって正念に至るという「死に様」によって往生の可否が決定するのではないという明確な主張を読み取ることができる。こういった、人間の現実に対する寛容性・包容性は、宗教が決して忘れてはならない大事な要素である。

松本滋氏は『父性的宗教―母性的宗教』の中で、どのような宗教でも、二つの要素が混ざり合い融合していると指摘し「父性的宗教―禁欲的・自律的・条件的・規範的、母性的宗教―和合的・寛容的・無条件的・包容的」と分類している。私は「父性的宗教=~せしめる」「母性的宗教=~を受け入れる」と理解している。

松本氏の考察は、人間の心理要素まで踏まえた上でのものであり、随所に示唆的な考察がみられる。母性的宗教の説明の中では「人間の自律分離がしばしば惹き起こす孤立感疎外感に耐えきれなくなった時、すべてを許しすべてを受け容れてくれる包容的な母親的存在、故郷的存在が重要な意味を持つ」と述べられている。自己の自律分離そのものや、それによる孤独感疎外感に対応すべき内容は、母性的宗教の和合的・寛容的・無条件的・包容的という要素なのである。

私自身の体験を言えば、小中学生であった子供たちのことを心配し無念の中で亡くなった先輩僧侶や子供たちの行く末や孫の成長を楽しみにしながら亡くなっていった義父は、いずれも「死の受容」とは無縁の執着の中での最期であった。しかしながら、それはいけないことであり、否定的に捉えられることなのだろうか。私は、むしろ二人共素晴らしい父親であったとその愛情を賞賛したいと思うのである。

誰もが凡夫である以上、無執着になどなれるはずがない。私たちはたとえ宗教の教えに触れたとしても、すべてを処理できずに悩み苦しみを抱き続けるのである。真の意味でのケアは、そういった人々を前提にしてなされるべきものでなくてはならない。「~せしめる」ではなく「~を受け入れる」ことを基本に、導くのではなく寄り添うことこそを大切にして行くべきであろう。私は以上の点から、ターミナルケアと宗教の関わりについては、一度立ち止まってよく検討すべきであると考えている。