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行基信仰と叡尊教団

山形大教授 松尾剛次氏

2018年9月12日付 中外日報(論)

まつお・けんじ氏=1954年、長崎県生まれ。東京大大学院人文科学研究科博士課程を経て、98年から山形大教授。東京大特任教授、ロンドン大アジア・アフリカ研究所客員教授なども歴任。専門は日本仏教史、中世史。元日本仏教綜合研究学会会長。『勧進と破戒の中世史』『仏教入門』『忍性』など著書多数。

今年2018年は、行基菩薩(668~749)が誕生して1350年目に当たる。そのために、行基をめぐって種々の記念行事が行われており、本稿もそうした動きの一環の一つである。

行基といえば、奈良東大寺大仏の建立において、大きな役割を果たしたことで知られるが、行基の本領は、民衆のために、橋、堤、池、寺院、布施屋(運脚夫などの収容施設)などの建設に努めた点にある。すなわち、社会救済活動家であった。このことにまず注意を喚起しておきたい。

行基の活動の遺跡は、現在においても残っているが、一例をあげれば、大阪府岸和田市池尻町の久米田寺前の久米田池がある。その池は、周囲延長2650メートル、45・6ヘクタール、貯水量157万トンもある大阪府最大の溜池である。行基によって灌漑用の池として神亀2(725)年から天平10(738)年までの14年もの歳月をかけて建設された。灌漑面積は27・7ヘクタールという。平成27(2015)年10月には世界かんがい施設遺産に登録された。筆者は、たまたま今年の6月に久米田池を訪ねる機会があったが、巨大な池のほとりに立つと、行基の民衆救済の強烈な思いが想像され、古代にタイムスリップした感がしたものだ。

それでは、行基とはいかなる人物であろうか。伝記をまず簡略に紹介しよう。行基は百済系渡来人の高志氏の出で、和泉国(現堺市)に生まれた。彼は、15歳で出家し、飛鳥寺で仏教を学んだ。いわば飛鳥寺所属の官僧(官僚僧)となった。しかし、慶雲元(704)年には生家を寺(家原寺)にすると、官僧を離脱し、布教活動と社会救済活動を開始した。

そのために、養老元(717)年には「僧尼令」違反として禁圧の対象になっている。読者の多くは、民衆へ布教活動を行って弾圧を受けたと聞くと不思議に思われるかもしれないが、官僧は、衣・食・住の保障がなされるかわりに、「僧尼令」によって民衆布教は禁止されていた点に注目すべきである。官僧は、寺において鎮護国家の祈祷を行うことを第一義としていたのである。

しかし、そうした弾圧にもめげず、行基の説法の場には、しばしば千人を数える人々が集まったという。さらに、行基は、先に述べたように、弟子や信者たちの協力を得て、橋、堤、池、寺院、布施屋などの建設に努めた。こうした行基の力(動員力、集金力)を聖武天皇は大仏建立に利用し、行基は、その功績により743年には大僧正に任命された。こうしたことにも、古代国家仏教の時代といっても、行基らの努力によって仏教が民間へ広まっていたことが読み取れる。行基の活動は多岐にわたるが、以上のようにまとめてみた。

さて、本稿に与えられた課題は、行基に対する信仰の展開を見ることにある。とりわけ、奈良西大寺叡尊をいわば祖師とする叡尊教団と行基信仰との関係に注目する。というのも、叡尊教団こそ中世における行基信仰の主な担い手だったからである。叡尊らは、行基を自分たちの社会救済活動のモデルとした結果、叡尊教団によって行基信仰は宣揚され広まっていったといえる。

覚盛・叡尊ら4人の僧は、嘉禎2(1236)年9月、東大寺で自誓受戒を行った。受戒とは、釈迦の定めたという戒律護持を戒律に精通した僧(戒師という)の前で誓う儀礼である。戒師の側からは授戒という。叡尊らは、すでに東大寺戒壇で、10人の戒師の前で受戒していたが、戒師たちが戒律を護持していない様を見て、戒師による東大寺戒壇などでの授戒を拒否し、仏・菩薩の前で、自ら戒律護持を誓う自誓受戒を行って戒律復興運動を開始した。ここに叡尊らは、官僧身分を離脱し、遁世僧として活動を開始した。

ことに注目されるのは、それから9年後の寛元3(1245)年に、先述の行基が生家を寺にした家原寺に戒壇を創り、叡尊らが戒師となって、授戒制を始めた点である。いわば、律宗教団の戒壇授戒が始まったと評価できる事件であった。そうした画期的な授戒制が、家原寺で始まった点にも、叡尊らが行基に倣おうとしていたことが読み取れよう。

とりわけ叡尊弟子の忍性(1217~1303)は、行基を強く慕っていた。忍性は死に際して遺言し、自己の火葬骨を分骨し、鎌倉極楽寺・大和郡山額安寺・生駒竹林寺の3カ寺に収めることを願った。極楽寺・額安寺からは、五輪塔の下から優美な金銅製の骨蔵器が見つかっていた。それらの表面には、忍性の略歴が刻銘され、銘文により竹林寺にも埋納されたことはわかっていたが、五輪塔がなくなっていたために見つからなかった。しかし、後の墓地域の発掘により、行基の石造骨蔵器に似せた八角の石造の容器の中から、額安寺で見つかった骨蔵器とほとんど同じ形(同様の銘文あり)の骨蔵器が見つかり、行基の墓所である生駒竹林寺にも、墓所(五輪塔)を作って、分骨していたことが確かめられた。叡尊教団の最重要人物の一人で、教団に大きな影響力を持った忍性が、死後、永遠に行基のそばに眠ろうとしていたほど、行基を尊敬していたのである。それゆえ、叡尊教団は行基ゆかりの寺院と聞くと、できるだけ復興しようと努めたようである。

そこで、次に行基ゆかりの寺院の叡尊教団による復興を見てみよう。行基は、四十九院といわれる49カ所の寺院を建立したといわれる。それらは、行基の滅後には、衰頽していったようであるが、叡尊らは、行基ゆかりの寺院を中興しようと努めた。

たとえば、先述の久米田寺がある。久米田寺は、山号を竜臥山、院号を隆池院という。高野山真言宗に属する寺院で、行基によって草創された四十九院の一つとして知られる。行基は旱天に悩む人々のために天平期に溜池(久米田池)を造成し、その管理のために天平10(738)年に建てた寺院隆池院に由来する。

この久米田寺は、鎌倉幕府の得宗被官安東蓮聖による中興で知られる。安東蓮聖は、建治3(1277)年10月15日に久米田寺と寺領(免田26町4反120歩)を東大寺実玄より買い取り、それを中興開山顕尊に譲った。顕尊は、堂舎を建てた上で、弘安6(1283)年に円戒房禅爾に譲った。こうして再興がなり、嘉元4(1306)年4月16日時点において15カ国出身の25人が住む寺院となった。また、室町幕府によって利生塔設置の寺院となったほどの寺院である。

ところで、先の久米田寺の中世における中興開山顕尊は、西大寺叡尊の直弟子と考えられてきたが、近年では覚盛の弟子橘寺慶運に師事した南都系の律僧と考えられていて、唐招提寺覚盛系の人物とされる。しかしながら、文安2(1445)年頃には久米田寺が西大寺末寺となっていた。というのは、文安2年のものではないかと推測されている東寺の修造のための奉加に協力した寺のリスト「東寺修理奉加人数帳」の和泉国の分に、久米田寺が西大寺末寺として記載されているからだ。しかも、注目されるのは少なくとも10人以上もの住僧のいる寺院として記されている。叡尊教団は、久米田寺に西大寺系の僧を住まわせ、久米田池の管理に努めたのである。以上のように、行基といえば、古代僧と思われがちだが、行基の遺跡が中世において行基信仰を宣揚した叡尊教団によって中興されていた点にも注意する必要がある。