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「古義大学林の尼僧学籍簿について」を問う

高野山大総合学術機構課長 木下浩良氏

2018年9月19日付 中外日報(論)

きのした・ひろよし氏=1960年、福岡県生まれ。高野山大文学部人文学科国史学専攻卒。専門分野は仏教考古学・高野山史。兵庫県旧竹野町・旧養父町、大阪府岬町、和歌山県九度山町・高野町の各町史編纂委員等を歴任。高野山大総合学術機構課長、密教文化研究所受託研究員、日本山岳修験学会評議員。著書に『はじめての「高野山町石道」入門』『はじめての「高野山奥之院の石塔」入門』『戦国武将と高野山奥之院:石塔の銘文を読む』『戦国武将真田一族と高野山』。
1.はじめに

表記の論考が松山文佳氏により公表されたのが、本紙6月20日号の「論」上であった。これに先んじて筆者は5月30日号の「論」上で「高野山の近代化―女人禁制解除と外国人登山の視点から―」と題する小考を公にしたが、古義大学林における尼僧の位置づけについて、筆者と松山氏の主張は相反する結果となっている。

その意見の相違について、松山氏の論考と拙稿を拝読いただいた方から、いずれが正しいのかの問い合わせが筆者に複数届いている。筆者としては本紙上を借りて、本稿にてその回答とさせていただきたい。そのジャッジは本稿をお読みいただき、読者それぞれが判断していただければ幸いである。

まず、古義大学林とはいかなる教育機関であったのか、その性格から話を進めて、愚考を再掲するとともに、松山氏論考中の疑義を提示させていただきたい。

2.古義大学林の開校

古義大学林は1886(明治19)年5月、高野山上で開校された高野山大学の前身となる教育機関のことである。正式な名称は「真言宗古義大学林」となる。当時、古義派の僧侶になり寺院住職になる者は古義大学林に必ず入学しなければならなかった。開校当時はそれまで寺院住職となった僧侶であっても、それが野沢本山の住職であっても同学林への入学を義務付けたのであった。他方、新義派の僧侶になる者は「真言宗新義大学林」(大正大学の前身)への入学を義務付けたのである。

その高野山で開校となった古義大学林で最も注目されるのが、尼僧の入学を認めていたことである。つまり、古義大学林は、男女共学であった。これは、他宗の教育機関はもちろんのこと、キリスト教系の学校にも見られない、高等教育機関においてはわが国では先駆けた事例であった。そのことを証明する資料が、松山氏も典拠としている古義大学林学籍簿の『尼僧近士学籍』である。

高野山は女人禁制であった。これが解禁されるのは72(明治5)年の太政官布告による。ただ、一般の女性が高野山に住めるようになるのは、1906(同39)年からであった。その女人禁制全廃までの経緯は筆者の前稿を見ていただきたい。いずれにしても、古義大学林が高野山開山以来の伝統を率先して修正して、学校運営をしたことは特筆される。古義派寺院の住職になるには、古義大学林へ入学しなければならなかったのであり、子弟教育を第一として、高野山の禁忌が変更されていった様子が垣間見られるのである。前稿でも述べたように、尼僧は堂々と高野山上を闊歩していた様子がうかがえるのである。

3.松山氏論考への疑義

この筆者の主張に対して疑義を明らかにされたのが、松山氏であった。松山氏は上記論考において、「尼僧が高野山に住み古義大学林で実際に勉強した可能性は非常に低い。(中略)古義大学林は制度的には他宗派に先駆けた高等教育の男女共学となったが、通学などの実態はともなっていなかったと筆者は考える」と結論付けされているのである。果たして、そうであったのであろうか。

仮に、松山氏の論が正しいのであれば、古義大学林へ入学した尼僧らは、一体どこで講義を受けていたのであろうか。古義大学林が設けられた場所は、旧興山寺跡地で現在の金剛峯寺奥殿付近であった。同地の他に校舎があったという事実はない。さらに、入学した以上は学習の過程を経るのは当然であり、単なる便宜上の入学では卒業できなかったからである。

4.古義大学林の教育制度

この時代はまさに学歴社会であった。古義大学林も同様で、初級から、2・3・4・5・6・7・8級と続き、最上級が9級であった。各級とも、上級に上がるにはその各級の試験に合格しなければならなかったのである。

学習内容は正科(秘鍵・菩提心論・二教論・宝鑰・即身義・声字義・吽字義・悉曇字記・住心品疏・釈論・理趣経・曼荼羅抄)と、兼学(三論玄義・異部宗輪論・天台四教儀・起信論・華厳五教章・因明論・倶舎論・唯識・有部律・法華文句・法華玄義・華厳探玄記・天台止観等)の2本立てとなっていた。

初級から3級卒業者には権律師、4級卒業者には律師、5級卒業者には権少僧都、6級卒業者には少僧都、7級卒業者には権中僧都、8・9級卒業者には中僧都の僧階が与えられた。将来に権大僧都以上の僧階を得るには、9級全科卒業をしなければならなかった。

そして、9級全科卒業者は卒業後の功労により、僧階は具進されるとされていた。古義大学林での学歴が、卒業後の僧階を左右していたのである。この頃、布教の第一人者とされていた泉智等師(後に古義大学林第6代総理)が、40歳を過ぎて大僧都を申請しても容れられなかった時代のことである。9級全科卒業には7年は必要とされたが、進級については年限に限らず、各級の試験に合格さえすれば上級へ進むことができた。最短で、4年程度で9級の全過程を終了することができた。

また、古義大学林生は、必ず金剛峯寺に交衆して学会を受けねばならなかった。初級が昇口で、9級全科卒業者は学会2年目が終わっていた。この点も、極めて注目される。逆を言えば、学会2年目を終えるには、9級全科卒業をしなければならなかったのである。このことは、古義大学林に入学した尼僧も金剛峯寺に交衆して学会を受けて昇口の位置にいたことになる。現状では、学会は男性だけとなっているが、明治期の高野山においては極めて柔軟な運用をしていたのであって、むしろこの点だけでも注目されるのである。

5.進学生と住学生

古義大学林生は、進学生と住学生の二つに分けられていた。進学生は9級全科卒業を目指す学生のことで、今日でいうエリートコースのことである。この全科卒業生は、毎年若干名しか出なかった。

明治21年、初めての9級全科卒業生を古義大学林は輩出したが、松永昇道師(後に東寺派管長・京都専門学校長)の1師のみであった。翌22年には加藤諦見(後に高野山大学林教授・古義真言宗管長)、重松寛勝(後に高野山大学林講師・小野派管長・隨心院門跡)、聖山浄憲、高岡隆心(後に本学初代学長・古義真言宗管長)の4師、翌々年の23年には山縣玄浄(後に高野山大学林講師・日清戦争に従軍布教師として活躍。「山縣の高野山」と称される)の1師だけであった。全科卒業生は、将来は金剛峯寺座主となり、東寺長者候補にものぼり詰めると学則ではうたっている。

他方、住学生とは、3・4級卒業をもって古義大学林を退学して自坊へ帰郷する大学林生のことである。地方の末寺の子弟にとっては、権律師・律師の僧階を受けて、住職の資格を得れば十分だったのである。古義大学林生の99%以上が住学生であった。ただし、古義大学林の5級以下の住学生卒業者は、満40歳までは寺院住職であっても、毎年1度、古義大学林で開かれる宗意・安心等の試験を受ける義務を負っていたのであった。

尼僧の入学者も、9級全科卒業生には該当者がいない以上、住学生であったことが考えられる。住職となるための僧階を得て、高野山を早々に下山したのではないかと推察するのである。初級から3級卒業者には権律師の僧階が得られたことは、前記の通りである。おそらく、尼僧は1年を経ずして古義大学林を卒業したのではなかろうか。

6.おわりに

以上、古義大学林における尼僧の大学林生について私説を述べさせていただいた。この尼僧の入学については、高野山大学史においては極めて重要な問題点であり、あえて反論を述べた次第である。

ただ、松山氏論考においては尼僧の追跡調査等これまで不明とされたことが明らかになされている。この点については、筆者も松山氏から新知見をいくつもいただいた。そのことについては松山氏の調査研究に敬意を表すとともに、筆者としても古義大学林における尼僧の入学について、さらに調査をすすめ、史料の発掘と博捜に努めることを宣言して本稿を擱筆したい。