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日宋交流と禅僧 ― 中世禅の再考≪2≫

国際日本文化研究センター准教授 榎本渉氏

2018年10月5日付 中外日報(論)

えのもと・わたる氏=1974年、青森県生まれ。98年、東京大文学部卒。2003年、東京大大学院博士課程単位修得退学。東京大東洋文化研究所助手を経て、10年から国際日本文化研究センター准教授。博士(文学、東京大学)。著書に『東アジア海域と日中交流―九~一四世紀―』(吉川弘文館)、『僧侶と海商たちの東シナ海』(講談社選書メチエ)、『南宋・元代日中渡航僧伝記集成 附江戸時代における僧伝集積過程の研究』(勉誠出版)。

日中交流史において、12世紀末は一つの画期である。平安時代の日本では、大宰府が貿易船を管理下に置き、天皇が許可して初めて貿易が認められる(天皇が許可しなければ帰国が命じられる)という体制が採られた。また貿易船を利用した日本人の出国にも、天皇の許可が必要とされた。実際に海外渡航を求めるのは僧侶に限られたが、現実に許可を得るには天皇に奏請するための縁が必要という事情もあり、10~11世紀において許可の頻度は、20~30年に1回程度にとどまった。僧侶の入宋は1167年以後、後白河―平氏政権下で一時的に盛んになるが、この段階でも入宋したのは、やはり中央と関係のある僧侶に限られる。

ところが1185年の平家滅亡後、僧侶の海外渡航が活況を呈し始める。この頃には大宰府を介した公的貿易管理が見られず、貿易船が自由に往来を始めるが、おそらくこれと表裏の関係で、人の出入りに関する規制も行われなくなった。当時は貿易船が日宋間を連年往来しており、これに便乗する形で僧侶の入宋が行われた。特に1240年代以後になると、僧侶の往来が連年確認できるようになる。日宋貿易の盛行は、入宋僧の継続的な輩出を可能にした客観的条件の一つだった。

この新たな動向を反映して入宋した僧侶の初期の例として、1187年の栄西(第二次入宋)と1199年の俊芿が挙げられる。いずれも帰国後に、南宋で体験した仏教のあり方を参照して、当時の日本で軽視されていた持戒・禅定の実践を重視し、その基盤となる集団生活の環境を整備することで、日本仏教の改革を試みた。現状を批判するために南宋仏教をグローバルスタンダードとして持ち出した、と言い換えてもよい。

このたび『中世禅籍叢刊』で公刊された数々の典籍は、彼らが日本に持ち込もうとした教説がどのようなものだったのか、またはそれを日本仏教界の中でいかに位置付けようとしたのかを伝える、思想的格闘の痕跡である。

日本国内で南宋仏教の再現を目指した諸門流は、絶えず最新の南宋仏教と接点を持つべく、僧侶を南宋へ送り出した。入宋僧を特に多く輩出した門流としては、1200~30年代に栄西門流、1210~50年代に俊芿門流、1240~70年代に京都東福寺の円爾門流、1250~70年代に鎌倉建長寺の渡来僧蘭渓道隆の門流がある。

この中で栄西門流の入宋僧について見ると、参学先が判明する例については、いずれも慶元(寧波)の天童寺に参じている。これは栄西が天童寺で学び、帰国後に木材を送って千仏閣を建てた由縁が関係する。たとえば1225年に南宋で撰述された『日本国千光法師祠堂記』には、栄西(千光法師)の事跡を記念して天童寺に建てられた祠堂の由緒を祠堂に刻んだもので、千仏閣の件を含む栄西の略歴とともに記されている。『祠堂記』が撰述された契機は、栄西の忌日である某年(1224年頃か)7月5日に行われた冥飯の大斎である。その主催者である明全は栄西の法嗣で、会子(紙幣)千緡を出して大斎を行ったという。ただし明全はその後客死し、その遺骨は道元が日本に持ち帰るところとなった。

会子千緡とは、もしも銅銭に両替して日本に持ち込めば千貫文、現代の価値ならば1億円に相当する額であり、明全個人の喜捨とは考えられない。明全一行は、栄西門流の代表者として天童寺に派遣されたもので、巨額の大斎開催費用は、門流が拠出したものだろう。明全一行は日宋の教団を媒介する使僧であったといってもよい。栄西門流からはこれ以前から天童寺に僧侶を留学させており、たとえば道元は天童寺で、五根房や隆禅など先に入宋していた同門の日本僧と会っている。栄西門流は天童寺との関係を保ちながら、一定の頻度で僧を派遣し続けていたとみられる。栄西門流は留学先として天童寺を確保すべく、祠堂を建て大斎を開催し『祠堂記』を祠堂に刻むなどして栄西の記憶の風化を防ごうとしており、そのためには多少の出費も厭わなかった。

ただし道元は在宋中ずっと天童寺にいたわけではなく、臨安径山・台州天台山なども巡歴している。そして天童寺に戻った時に出会った新住持の長翁如浄に随侍して得悟を果たし、帰国後はその法を嗣いで曹洞宗を始めた。つまり一門から使命を受けて入宋した僧は、渡航後自らのために巡礼修道を行うことがあり、その成果次第では、帰国後に別教団を立ち上げることもあった。

この事情については、同じく栄西門流として入宋した円爾の例も参考になる。円爾は1235年に入宋し、やはり天童寺に参じた。しかし円爾はまもなく天童寺を出て臨安に移り、上天竺寺・浄慈寺・霊隠寺を歴参した。その最中に退耕徳寧という僧に会い、その師である臨安径山の無準師範を薦められた。円爾は無準に参じると、器量を認められて印可を受け、帰国してからはその法を嗣ぎ、博多承天寺や京都東福寺などの開山となった。円爾は栄西門流の留学先である天童寺には長く留まらず、自らの関心に従って遊歴して新たな人脈を築いたのである。日宋仏教界の人脈は、このようにして深化と拡大を続けた。

円爾は帰国後も連年無準に手紙を送っており、無準もこれに対して返事を送っている。そこにはしばしば「某上人が来て手紙を受け取った」などと書かれており、円爾が入宋僧を継続的に径山に派遣し連絡を取ったことが知られる。円爾の手紙を届けた使僧には祐・音・豪・能・印などがいるが、最初の3人は道祐・覚音・一翁院豪という僧に該当する。彼らも宋に着いた後は、それぞれの関心に従って巡歴や修行を行っており、お使いの役目のみのために入宋したわけではない。また無本覚心・無象静照という僧は、円爾から紹介状を受けて入宋し、径山に入ったとされる。入宋に当たって便宜の提供を受ける代わりに、何らかの使命を請け負っていたのだろう。

円爾としては、入宋留学を望む僧に便宜を提供して連絡役とすることで、径山との縁を継続することができたし、逆に南宋仏教界とのパイプを持っていたことは、入宋を望む若い僧を惹きつける要素にもなったと考えられる。門流維持のために入宋僧が再生産される構造ともいえよう。東福寺で行われた宋風の規式や法要は、こうして組織的に派遣された入宋僧のもたらした情報によって整備されたものであった。

入宋僧たちが帯びた使命としてしばしば確認できるものに、序跋(著作の前後に付ける文)の獲得がある。南宋禅林での文学的営為への理解が進むとともに、日本でも高僧の語録・詩文集が、その遷化後に編纂されるようになった。これは門人たちが師を顕彰し門流を権威づけることを目指したものだが、その目的のためにはできるだけ高名な僧の序跋を得ることが期待された。そしてその場合、日本僧よりも宋僧の方が望ましいと考えられることが多く、しばしば宋に使僧が派遣された。

早い例としては蘭渓道隆が、1261年に門人らを派遣して、自らの語録に宋僧の序跋を求めさせたものがある。ついでその2年後には寒巌義尹が、師の道元の語録を持って入宋し、諸師に序跋を乞うている。さらに元代には、師僧の伝記(行状・塔銘等)や頂相の像賛を求めるために入元する僧も現れ、その例は枚挙にいとまがない。

特殊だが重要な任務として、宋元僧の招聘も忘れることはできない。たとえば蘭渓道隆が建長寺で入滅した1278年、北条時宗は蘭渓門弟らを派遣して、蘭渓に代わる名僧を招聘するように命じた。この結果鎌倉では無学祖元が迎えられ、後に円覚寺開山となっている。以後も元代中国からは、多くの禅僧が入元僧に連れられて来日し、日本禅林の指導者となった。

このように日本で活躍した高僧たちの周辺には、多くの入宋僧・入元僧がおり、門流や外護者から任務を託されて留学の機会とした。それがすべてのケースに当てはまるわけではないだろうが、史上有名な禅僧たちの中には、先述の道元(栄西の大斎開催のために入宋)や絶海中津(夢窓疎石の碑銘を得るために入明)のように、使僧として渡航し留学して成果を上げた者も、確かに少なからず含まれていたのである。