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親鸞の経論の読み替え

大谷大名誉教授 小谷信千代氏

2018年10月12日付 中外日報(論)

おだに・のぶちよ氏=1944年、兵庫県生まれ。75年、京都大大学院修士課程修了。98年から大谷大教授を務め、同大名誉教授。著書に『法と行の思想としての仏教』『倶舎論の原典解明 賢聖品』(共著)、『真宗の往生論 親鸞は「現世往生」を説いたか』『虚妄分別とは何か 唯識説における言葉と世界』など。

親鸞がその当時の通常の理解とは異なるかれ独自の教義の理解の正当性を示すために、経論の語の読み替えを行ったことはよく知られている。例えば、臨終時に往生して得られるとされる正定聚の位を現生に移行するために『浄土論註』(以下『論註』)の語を読み替えたことと、回向する者を行者から如来に転ずるために同じく『論註』では「回向する」と説かれている語を「回向したまえり」と読み替えたことが周知されている。

それとは多少異なるが、『一念多念文意』(以下『文意』)において、「即得往生」の語を文字通り「直ちに往生を得る」ことではなく、「正定聚の位につき定まること」を意味する語として解釈することも、その種の読み替えとして理解することができる。

これは『論註』を読み替えて往生して得られるとされる正定聚の位を現生に移行したことと目的を一にする読み替えであり、その読み替えの意図を理解することは親鸞の往生論を理解する重要な手立てとなる。

一 即得往生の読み替え

「即得往生」は、浄土経典において通常は、臨終の時に「直ちに往生が得られる」ことを意味する語として現れる。しかし、第十八願の成就文においては臨終時であることを示す語が現れず、真実の信心が得られれば現世で「直ちに往生が得られる」ことを意味するかのような形で現れる。

それゆえ親鸞はそのように誤解されないように『文意』において「正定聚の位につき定まるを、往生をうとはのたまえるなり」と述べて、「即得往生」の語を通常の「直ちに往生が得られる」という意味ではなく、「正定聚の位につき定まること」を意味する語へと読み替えている。

この『文意』の語が親鸞の読み替えであることが理解されなかったことから、親鸞は「正定聚の位に就くことが、即ち往生を得ることである」と述べたものと速断して、「現世往生説」が生まれることになった。「即得往生」を真実の信心が得られれば直ちに「往生が得られる」ことを意味する語と理解したことから「現世往生説」は生まれたのである。

確かに第十八願は「念仏往生の願」と言われるように、念仏という「因」によって往生が「果」として得られることが誓われている願である。ゆえに、その願が成就したことを述べる文に出る「即得往生」の語には、真実の信心によって往生が「果」として得られることが説かれていると考えるのが通常の理解である。

現世往生説を主張する人々は「即得往生」の語を文面通りにそう理解したのである。けれども親鸞自身は文面通りには理解しなかった。成就文の「即得往生」の語を親鸞は『教行信証』行巻では次のように読み替えている。

必得往生と言うは、不退の位に至ることを獲ることを彰らわすなり。経には即得と言えり。釈には必定と云えり。即の言は、願力を聞くに由りて、報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。

ここでは「即得往生」は「必得往生」と読み替えられている。そして「往生」を即得すると経には説かれるが、即得されるのは「不退の位」すなわち「正定聚の位」であると読み替えられている。そして「即」という「現生で直ちに」を意味する語は、「報土の真因」の決定することが「現生で直ちに得られる」ことであると説かれている。

このように親鸞は、第十八願の成就文を、「即得往生」が往生が「果」として得られることが説かれていると読む通常の読み方とは異なって、「報土の真因」つまり往生の「因」が得られることが説かれる文へと読み替えている。

しかし、現世往生説を主張する人々は、その読み替えの意味を理解せずに、親鸞は「即得往生」を往生の「因」ではなく往生が「果」として得られるものと理解したのである。

二 正定聚を現生に移す読み替え

正定聚は『無量寿経』では「仏になるに定まった位」とされ、臨終往生して浄土において得られる位とされている。親鸞は通常は命終後に浄土で得られるとされる正定聚の位を、『論註』の語を読み替えることによって、現生で得られる位へと転じた。

親鸞にそのような読み替えをさせたものは、親鸞の胸底にある、自ら真実の経と信じる『無量寿経』には「凡夫が仏になる教え」が説かれていなければならないとする確信であったと考えられる。その確信がかれに牽強付会とも思える強引な読み替えを敢行させたのである。

凡夫が現生において悟りを開いて仏となることはできない。凡夫が現生において獲得できるのは正定聚の位に就くことである。しかし、正定聚は『無量寿経』では「仏になるに定まった位」とされて、凡夫にはなお現生において得ることの不可能な位である。それゆえ、親鸞は『文意』の「正定聚の位につき定まる」の「正定聚」の語を「往生すべき身と定まる」ことと注釈したのである。

親鸞はこのように読み替えを重ねることによって、『無量寿経』の趣旨を展開させて、凡夫が真実の信心を得るときに「往生すべき身と定まり」、臨終往生するや「仏になるに定まった位」である「必至滅度」に達して仏となると説く「凡夫が仏になる教え」であることを明らかにしたのである。そのことが『教行信証』信巻には「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す」と述べられる。

成就文には「即得往生」の語は、現生で「直ちに往生が得られる」ことを意味するかのような形で現れる。しかし、現生で「直ちに往生が得られる」のは凡夫ではなく聖者である。けれども『無量寿経』を「凡夫が仏になる教え」を説くものとするのが親鸞の領解である。しかも、当該の成就文を除けば、「即得往生」の語は常に命終の時を示す語と共に用いられている。この成就文の矛盾をなんとかして解決しようとして思い至ったのが、「即得往生」の語の読み替えであると考えられる。

成就文に「即得往生」と説かれ「往生をう」と説かれているのは、文字通り往生を得ることが説かれているのではなく、「正定聚の位につき定まる」ことであり、「報土の真因決定する」ことがそう説かれているのだ、とするのが親鸞の読み替えの意図である。

親鸞は「即得往生」の語を、「正定聚の位につき定まる」こと、あるいは「報土の真因決定する」ことを意味する語へと読み替えたのである。それは『論註』の語を読み替えて、臨終時に往生を得てから得られるものとされていた正定聚を、現生において得られる位に転じたのと目的を一にする読み替えである。

このように親鸞は「即得往生」が「往生を得る」ことではなく、「正定聚の位に就くこと」あるいは「報土の真因決定する」ことを意味する語に読み替え、さらに「正定聚」を「往生すべき身と定まること」を意味する語へと読み替えたのである。

このような読み替えによって、成就文を凡夫が現生において真実の信心を得ることによって「往生すべき身と定まり」、命終時には往生して仏となることを約束する語へと転換したのである。この読み替えによって『無量寿経』は、親鸞の求める「凡夫が仏になることを教える真実の経」となったのである。

三 第十一願文の読み替え

親鸞が成就文をこのように読み替えて「正定聚を現生に移行させる」ための根拠となったものは、一つは先述の『論註』の語である。さらに、そう読み替えて「正定聚を現生に移行させる」ことに確信を抱かせる根拠となったものは第十一願の文である。

第十一願は、第十八願・第二十二願と共に『論註』に「三願的証」と呼ばれる文中に援用される。「三願的証」には第十八・十一・二十二の三願によって凡夫の往生する次第が説かれている。

その中の第十一願は、本来「住正定聚・必至滅度の願」と呼ばれ、浄土に往生した衆生が正定聚に住し必ず滅度にいたることを誓う願である。しかし、親鸞は『浄土三経往生文類』の冒頭に、その願文を読み替えることを次のように説明する。

大経往生というは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力ともうす。これすなわち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土にいたる。

ここには第十八の「念仏往生の願を因」として「必至滅度の願果」を得ることが述べられている。つまり、親鸞は第十一願に説かれる「正定聚の位に就くことと滅度に至ること」を誓う願文を、「正定聚の位に就くこと」と「滅度に至ること」との二つに分離し、「正定聚の位に就くこと」を第十八願成就文に移行させるという読み替えを行っている。

親鸞は、「正定聚の位に就くこと」を往生における「滅度に至ること」から切り離して、現生における願事に転ずるために、第十一願から第十八願成就文へと移行させるという読み替えを行ったのである。

以上のように見てくれば、親鸞の読み替えが「現世往生説」を峻拒するものであることは明白である。