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曹洞宗禅画の祖 風外慧薫生誕450年

曹洞宗禅文化の会事務局長 鈴木潔州氏

2018年10月26日付 中外日報(論)

すずき・けっしゅう氏=1961年、東京都生まれ。日本大商学部卒。地元のみなかみ町観光協会理事、上州三十三観音霊場会副会長などを歴任。現在は大乗寺世界禅センター事務局長、国際(日中)禅文化交流協会幹事長等を務める。「月舟宗胡禅師 旧蹟を訪ねて」など論考多数。
出生地で記念展

風外慧薫は永禄11(1568)年、上州碓氷郡土塩村(現群馬県安中市松井田町土塩)に出生。本年は生誕450年という記念すべき年を迎えた。曹洞宗禅文化の会は風外慧薫の出生地である群馬県安中市、岩窟に棲んだ神奈川県小田原市での展覧会を企画した。

◎風外禅師生誕450年記念『風外慧薫』 期間=2018年4月28日~7月16日/場所=群馬県安中市学習の森ふるさと学習館

◎『生誕450年記念 風外慧薫―洞窟暮らしの禅画僧―』 期間=18年10月20日~11月25日/場所=神奈川県小田原市郷土文化館松永記念館

多くの関係者の協力を得て、2カ所で展覧会ができるのは大きな喜びである。その矢先、神奈川県真鶴での展覧会の話が舞い込んだ。真鶴は風外慧薫が20年ほどいた場所であり、ぜひ展覧会を行いたいとのことである。次のように概要が決まった。

◎『中川一政と禅~真鶴の奇僧 風外慧薫とともに~』 期間=19年1月4日~3月26日/場所=神奈川県真鶴町立中川一政美術館

風外慧薫がこれだけ着目されるようになったのは近年、禅文化が高く評価され、特に海外の方も興味を持つようになったのが関係していると感じている。その墨蹟がアメリカ、ヨーロッパ、イランにあり、中国の方も関心を持っているという話を聞く。

行雲流水の生涯

風外慧薫についての著述は散見されるが、古い記録はまことに乏しい。その中で基本とされているのが次の資料である。

○『画工便覧』延宝4・5(1676・77)年頃○月坡道印『月坡禅師語録』延宝8(1680)年○嶺南秀恕『日本洞上聯燈録』享保12(1727)年成立○山崎美成『名家略伝』天保12(1841)年

こうした資料をもとに風外慧薫についての行履を記してみたい。

永禄11(1568)年生出。神奈川県真鶴町、貴船神社には風外自筆の「貴宮大明神縁起」「巌屋縁起」「寄進」状が伝えられている。その中の「貴宮大明神縁起」に「慶安三年風外衲八十三歳」の記載がある。慶安3年は1650年であり、ここから逆算すると永禄11(1568)年に出生したことになる。自らの事を記していない風外の残したこの文書がなければ、風外慧薫の生年は不明であったと思う。

たれがみの童の頃に出家。諸々の宗派の寺の門をたたき仏道について学び、上野中郷雙林寺に属し籍があったことがうかがわれる。俗世の塵を払い、まさに行雲流水のごとく各地に赴く。禅の高徳があると聞けば、その寺に行き参禅、ついに大悟したという。

修行寺で風外の名は高まり、小田原成願寺に人がいなかったため、請われて成願寺の主となる。風外の生涯で唯一の住山であった。成願寺にいること数年、思いのようにならず、主を辞めて曽我山の岩窟に棲む。随伴の小童もなく日常生活を自ら行っていたという。

推定では、このころから筆を執り、画を描きだしたとされている。風外研究家、小田原市の野地芳男氏は「小田原周辺には多くの風外慧薫墨蹟が伝わっていた。昭和になり、風外の墨蹟が広く知られ、高額で取引されるようになり、その手を離れたものが多い。しかし現在でも当地に伝わり大切にされている画もある」と語る。墨蹟の数は人気のバロメーターでもある。風外慧薫の存在が広く知られ、その墨蹟が古くから評価されていたことがうかがわれる。

風外慧薫の画才は天から与えられたものであるとし、人からその画を求められると5升の米と替えていたとする。米が尽きるとまた、画を1枚書いていたという。そのために風外慧薫の居を訪れる者が多く、応接の暇もなかったという。乱れて騒がしいこの状況を嫌い南に去り真鶴山にいたる。斑石が林立するこの景色を風外慧薫はよろこび止居。曽我、田島、真鶴と風外は穴居したのである。

このころ、風外慧薫がお城に招かれるということが起きた。慶安4年、小田原城主稲葉氏は風外慧薫の名を聞き、使いを遣わしめ、城に招いた。時に城主は他用があり、家臣とともに宴を張り、日がくれて晩になってしまったという。風外慧薫は筆を執り五言絶句を記し立ち去った。風外慧薫の穴居とならび、よく知られているエピソードである。

小田原城主稲葉正則の招きを受けながらも会うことなく城を辞してしまった風外慧薫は、真鶴に戻ることなく伊豆山中に隠れ住む。当地の人たちは、竹渓院を再興して迎えたという。今までのしがらみを捨てて伊豆山中に隠れた風外ではあるが、慕う人たちがまた多く集まるようになったという。伊豆山中北条におよそ3年いるも、そこを逃れ遠江と西へ西へと流浪の旅にでた。自らの終焉の処をもとめての旅であったろう。行き交う人には風外慧薫を知る人もいない。

浜名湖の北、金指郷石岡の里に至り単丁庵に住む。死期を悟った風外慧薫は、1日人を雇い青銅300文を与えて穴を掘らせ、その穴に入り植木の様に立ったまま亡くなったという。承応3(1654)年、87歳であったと推定されている。

安中市の風外研究家、岩井正文氏は「風外慧薫は、修行時代を経て群馬を離れたあと戻ることはなかったのではないかと思う。現在、県内に風外慧薫の墨蹟が所蔵されているが、そのいずれも昭和になりその墨蹟が広く知られるようになってからのものであり、風外慧薫が故郷で書いたと思われるものはない」と語る。諸方を歴参、故郷に帰ることもなく一所不住の行履であった。

墨蹟、中世の香り

穴居時代から筆を執りはじめた禅画には抜きんでたものがあり、多くの人がその画を求めたという。風外慧薫が、どこで画を学び自らのものとしたかなど全く不明である。求められるままに描いた墨蹟は、透明さ・飄逸さにおいて人知の及ばないものがあり、今に伝わる墨蹟からは中世の香りが感じられる。無駄をはぶいた筆は鋭く、その内面を抉り出すような画には、後の白隠・仙厓などにつながるものが感じられる。

近世禅林美術史上において高い評価を受けているが、これからもその輝きは増していくことと思う。3カ所での風外慧薫展覧会は来年まで続くが、ぜひ皆さんに足を運んでいただき、風外慧薫の墨蹟、生きざまに触れていただきたいと念願している。なお、曹洞宗禅文化の会では今後、東京を会場に「大風外慧薫展」を行いたいと考えている。