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文観と禅密 ― 中世禅の再考≪5≫

名古屋大人文学研究科付属人類文化遺産テクスト学研究センター特任准教授 ラポー ガエタン氏

2018年11月9日付 中外日報(論)

ラポー ガエタン(Rappo,Gaétan)氏=1981年、インド生まれ。ハーバード大人文社会系研究科(GSAS)客員研究員などを経て現在、名古屋大人文学研究科付属人類文化遺産テクスト学研究センター特任准教授。PhD.(ジュネーブ大)。専門は中世真言密教史。近著に、Rhétoriques de l'hérésie dans le Japon médiéval et moderne:le moine Monkan(1278―1357)et sa réputation posthume『日本中世および近代における異端のレトリック―文観房弘真(1278―1357)とその受容』(Paris, Éditions L'Harmattan 2017年)など。
文観とは

文観房弘真(1278〈播磨生まれ〉~1357〈河内で死去〉)は、後醍醐天皇(1288~1339、在位1318~39)の側近となり南北朝期に活躍した僧である。網野善彦の『異形の王権』(1986年)にとりあげられたことからも明らかなように、従来の史学研究における文観は、性的な儀礼を行ういわゆる「立川流」のような真言宗の異端的宗派の大成者といったイメージが普及している。

しかし、近年、文観の多数の著作が確認されてからは、その思想家としての側面が改めて注目され、その「異形」性も見直され始めた。その「異形」性は、むしろ後に破綻することになった後醍醐天皇の政権に、文観が深く関与していたことから、後世に付与されることになったイメージである可能性が高い。

実際、文観の活躍は、日本史上特異視されがちな後醍醐天皇ぬきには語れない。元亨3(1323)年、勅により参内して以来、天皇の側近として活躍し、当時天皇であった後醍醐天皇の護持僧という極めて王権に近い立場で、天皇の宗教的活動を全面的にサポートする役割を担い、東寺長者さらには醍醐寺座主として実質的に当時の真言宗の権力の頂点に君臨する。それと同時に後醍醐天皇の倒幕計画にも積極的に関与することになった。

このことからも、文観は単なる精神的な指南役の立場を超えて、後醍醐天皇を頂点とする権力構造の中枢に位置していたと考えられる。自ら天皇に灌頂を授けただけでなく、天皇の希望に応じて様々な祈禱や儀礼を実修するなど、文観は実際に天皇周辺で多様な宗教的儀式を行い、それに関連する多数の聖教も書写・作成した。建武新政の崩壊後は、後醍醐天皇の吉野潜行にも同行するなど、天皇と運命の浮沈をともにし、天皇の死後も、その皇子であった後村上天皇に仕え、最終的には南朝の行在所であった河内金剛寺で執筆活動の後に没している。

文観の特異性が挙げられるとするならば、最初に西大寺の律僧として仏門に入ったにもかかわらず、西大寺第二長老信空のもとで真言宗の教理・事相を学んだ上で、醍醐寺報恩院流の道順から伝法灌頂をうけ真言僧となったことである。つまり、宗派横断的な教育を受けた上でその思想が育まれ、後の数々の儀礼の創造につながっていったのである。

文観の著作のほとんどが密教儀礼に関する文献であるため、一般的には真言僧であると認識されてはいるが、その思想は、中世に興隆した多様な学問の潮流の影響を多分に受け、中世に登場した種々の信仰・伝説・言説のアマルガム、ひいては到達点の一つの有り様とも捉えられる。本来禅密の文脈で語られることのなかった人物を、あえてこの場で言及することになったのには、このような背景がある。

文観の思想と禅

文観の著作は、密教儀礼の中でも、特に灌頂と如意宝珠に言及したものが多い。灌頂は、そもそも仏縁と人間を取り持つための儀式であり、また如意宝珠は仏の霊験が具現化したものであり、両者ともに信仰のもたらす特殊で偉大な力に近づく手段と考えられる。こうした手段に、最高権力であることを志向した後醍醐天皇が興味を示し、これを南朝の王権の興隆のために利用したのも不思議ではない。実際、こうした著作は、大部分が後醍醐天皇のために執筆されているのである。

思想的には、『理趣経』『瑜祇経』といった密教経典に依拠しており、その注釈から論が展開されている。しかし、文観関連著作のうちで、『瑜伽伝心鈔』(1358年成立)と『秘密最要抄』(1354年成立)の2点においては、禅の思想が直接言及され、密教と比較されている。(ちなみに「文観関連著作」といったのは、実は正確には、文観自身ではなく、文観の弟子であった宝蓮が、書写した師の口決をもとに編纂したものであるからである。しかし、文観の流刑先や晩年までつきそった高弟であった宝蓮が記述したことから、文観の思想を伝えた資料であることは間違いないと考えられる)

『瑜伽伝心鈔』の内容は、西大寺の覚乗からの「以心伝心」についての質問に答えるために、宝蓮が師の文観から適切な解答を請うて書き留めたものである。ここでは、密教の教えの伝承のために根幹的な通過儀礼となる灌頂の儀式において、必ずしも言葉に頼らない伝授の新しい形の一つとして「以心伝心」が位置づけられる。

実は、一般的に禅由来の概念とされる「以心伝心」は、つとに真言宗の文脈においても存在していた。その歴史はかなり早く、空海に既に使用される語彙である。その背景にあるのは、『大日経』に見える「以心灌頂」で、隔絶された空間での師資相承を指している。

ここでは、阿闍梨が心地を開き、直に最極秘印明、つまり究極の秘密の奥義を伝えるのである。空海は、密教において、一人の人間が一人の人間に直接会って伝授を行うコミュニケーションの重要性を論じ、それを端的に伝えるためにこの表現を用いたのである。

一方、禅宗の経典に「以心伝心」が用語として登場するのは、実は10世紀以降のことである。『六祖大師法寶壇經』がその好例である。しかも、禅では、主に言葉の不要論という、文字・言葉の否定のような意味合いで使われる。公案においては、言葉と論理をつくしたレトリックの虚しさが諧謔化し、揶揄されている。

これは、密教の奥義の伝承で、祖師空海をはじめとする先人の言葉が重要視され、言葉を尽くして伝えられた複雑な教説や論理が大きな役割を果たしているのとは正反対である。つまり、密教における元々の「以心伝心」は、禅宗とはかなり異なる位相を指し示していたことになる。

文観においては、禅における「以心伝心」が否定されるのではなく、密教を頂点とする文観自身の思想にとりこまれ、彼の創造する儀礼の教理的根拠を裏付ける材料の一つとして受容されている。それは、宝蓮が編纂したもう一つの聖教『秘密最要抄』から、より明らかに理解される。

ここでは、「禅宗門人」の説として、文字の否定である「不立文字」の概念について言及がなされる。その内容は、渡宋し後に宮中で禅を広めたことでも有名な円爾弁円(1202~80)の講義がその弟子である痴兀大慧(1229~1312)によって記された『大日経義釈見聞』などと共通するところがあることから、その影響が示唆される。

円爾弁円・痴兀大慧の流れ(いわゆる聖一派)が醍醐寺三宝院流に浸透していたことを考えると、醍醐寺と深い縁のあった文観が、ここでの研鑽を通じて禅の説に触れた可能性が高い。しかし、『大日経義釈見聞』では、円爾弁円・痴兀大慧が直接的な悟りを導く禅宗の説の優秀さを明言しているのに対し、文観は『秘密最要抄』で、円爾弁円や痴兀大慧を「真言と禅の『以心伝心』に関する思想を混同する学者」と批判している。文観は、必ずしも、禅の先人のテクストを忠実に踏襲するのではなく、密教を頂点とする文観なりの世界観の枠組みで禅の教えを受容し、密教的な解釈の優越性を同時に訴えている。

このような密教テクストにおける禅の教説への言及は、必ずしも文観において突然始まったことではない。すでに鎌倉時代には、天台の直談という相伝法の成立過程で、円爾弁円の教説を利用し、言葉から離脱するという意味での「以心伝心」を顕密仏教に取り入れる動きがみられる。中世の天台僧は、文字と言葉という従来の媒体に拠った伝達手段から脱却し、「実相」を直接伝えることを目指すようになった。

こうした禅宗の教説を意識する顕密仏教の動向は、禅宗の影響力が政治・社会双方に浸透するにしたがい如実に現れていくものと考えられる。14世紀中葉に現れた『瑜伽伝心鈔』と『秘密最要抄』における現象も、その好例であり、禅と密教のこうした関わりを時系列的に追うために、重要なケースの一つと捉えられる。文観のように、権力の側にあり、その影響力がある程度担保されていた僧であっても、その思想を開陳するにあたり、禅の概念や考えを意識する必要があった(と弟子が判断した)背景からも、室町以降に影響力を浸透させていた禅の在り方が垣間見られる。

中世禅籍叢刊に収録された聖一派をはじめとする中世の禅密テクストの公刊により、宗派観にとらわれない中世日本宗教史の多面的な諸相の発掘と探求が今後も期待されるだろう。