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新発見『禅家説』と「達磨宗」 ― 中世禅の再考≪7≫

早稲田大日本宗教文化研究所招聘研究員 和田有希子氏

2018年11月23日付 中外日報(論)

わだ・うきこ氏=2007年、東北大大学院文学研究科文化科学専攻日本思想史専修修了(博士)。現在、早稲田大日本宗教文化研究所招聘研究員、群馬県立女子大・武蔵大非常勤講師。

『禅家説』とは、仮称であり、原題は不明である。名古屋市の真福寺大須文庫に所蔵されている断簡資料の調査の中で、2006年、禅に関すると思われる断簡が数紙発見された。以後、阿部泰郎・三好俊徳らが同様の体裁の断簡の収集を、また主に末木文美士・牧野淳司・米田真理子・和田が断簡の復元を行う中で、これらの断簡が複数の典籍を収録した全64丁(途中一紙未発見)の一冊の本であることが分かった。文字や、収録文献の成立年次から、鎌倉時代後半には成立していたものと思われる。

本書が脚光を浴びることになった最大の発見の一つに、本書が、大日房能忍の奥書を持つ『伝心法要』を収録していたことがある。この奥書には、①この『伝心法要』が、文治5(1189)年に宋に遣わした使者が、仏照禅師(拙庵徳光)から賜り、持ち帰ったものであること②この『伝心法要』には前半のみあり、後半が欠落、「伝心偈」などを有した「秘本」と思われるものであること③「大日本国特賜金剛阿闍梨能忍」がこの『伝心法要』を弘通させるため、欠落していた後半部分を『天聖広灯録』から補って出版したこと④この出版には、尼無求という女性が経済的援助を行っていること―が書かれている。このように、能忍の活動の実態を知る重要な奥書だったのである。

これと類似した奥書を持つものとして既に『潙山警策』が報告されている。そこには能忍が遣わした弟子が、仏照禅師から『潙山警策』を将来し、尼無求が出版を援助した旨が記されている。これらの出版を経済的に援助した尼無求は、石川県の大乗寺本『六祖壇経』の奥書にも登場する。このことから、仏照禅師から将来した『伝心法要』『潙山警策』、あるいはこれに『六祖壇経』を含む典籍が、能忍一門によって出版されたものとして新たに知られることになった。

中でも『伝心法要』は、実際能忍一門に重視されていた可能性も見えてきた。すなわち、彼らによるものであることがほぼ確実な、横浜市称名寺蔵『成等正覚論』に、上記②で示した『伝心法要』末尾の「伝心偈」の一節が引用されているのである。これは、上記②にあるように、「伝心偈」を持つ仏照禅師由来の『伝心法要』を「秘本」として重視した能忍の考えが、一門に反映、継承されたものと考えることができる。

能忍といえば長らく、異端的で社会的に孤立した存在というイメージが強く、それ以上のことは不明なことが多かった。しかし本書の発見により、能忍が中国禅籍を積極的に出版し、宋版大蔵経に収録された『天聖広灯録』を『伝心法要』の校訂に用いているように、宋版大蔵経を閲覧できる場に身を置き、出版協力者を周囲に有していたことも分かってきた。このことは、まだ多様な禅籍の展開を見ない鎌倉初期という時代において、禅の導入の状況を知る重要な証拠であり、能忍がそれを推進した人物だったことも明確になってきたのである。

奥書の中でもう一つ注目しておきたいのが、「金剛阿闍梨能忍」という自称である。まず能忍にこうした自称があること自体、新発見の事実である。このことからは、「金剛阿闍梨能忍」という密教系の称号をもっての禅籍出版を明言することに違和感がない当時の状況が確認できる。

実際、能忍没後に成立した史料に、能忍が教宗や密教系の称号を持つ弟子を連れた中で、禅に関わる問答をしていたり(『聖光上人伝』)、当初教宗の僧侶でありながら、禅に関心を持っていたことが記されている(『義介附法状』)。また、能忍が拠点とした摂津三宝寺では、仏照禅師から将来した禅宗六祖の舎利を、「禅宗の重宝」として、教宗の称号を持つ僧侶が保持している記事がある(『正法寺文書』)。当時の禅の実態を知る上でも、能忍が禅の何に共感し、密教との関係をどう考えていたのかについて掘り下げる作業が必要になるだろう。

では、『禅家説』全体に目を向けてみたい。本書は、偈頌を含め、15種類の文献(断片的な引用を含む)を収録している。①長廬宗●の『禅苑清規』内の「坐禅儀」②「初学坐禅法」③「順和尚十頌」(②③は、中国宋代の禅僧、大慧宗杲の弟子である如々居士顔丙の『如々居士語録』からの引用)④「順和尚法身頌」⑤「龍牙和尚偈頌」⑥「寒山頌」⑦「法眼禅師三界唯心頌」⑧六祖の偈⑨『伝心法要』⑩『宛陵録』⑪『大義祖師坐禅銘』⑫『達磨大師安心法門』⑬『仮名法語』⑭『大慧普覚禅師書』「答呂舎人」⑮『圜悟心要』「示普賢文長老」―である。このように、唐から宋にかけての禅文献と、13世紀中盤以降には成立したと思われる日本の仮名法語が並ぶ。

まず①から③は、坐禅の作法や、坐禅中の留意点などを具体的に示す。そして、禅の境地を示す先徳の偈頌が並び、『伝心法要』『宛陵録』の全編が置かれる。⑪⑫で、禅の境地と坐禅の心構えが示され、⑬の『仮名法語』を挟んで、⑭⑮に大慧宗杲とその師に当たる圜悟克勤の文献が掲載されている。

ここで、圜悟克勤―大慧宗杲(以下大慧と表記)―如々居士に師弟関係があることに着目したい。士大夫を対象にした大慧に対して、より庶民層を対象にした如々居士の②「初学坐禅法」には、初学者に対する坐禅の心得を説く中で、大慧の説を引用する部分も収録されている。

同じく如々居士の③「順和尚十頌」は、初心者から段階的に禅の修行法を説く興味深いもので、彼の禅風を示している。如々居士の典籍は、日本では広範に普及してはいないようだが、横浜市称名寺蔵の『法門大綱』や『坐禅儀』に引用があり、『法門大綱』は、表紙裏に『円覚経』に対する大慧の頌が確認され、やはり大慧のものと一緒に重視されていたことがうかがえる。能忍との関連から推測すると、仏照禅師が大慧門下であることから、能忍の奥書を含む『禅家説』がその教説を受容していることは不自然ではない。

最後に、『仮名法語』を確認したい。『仮名法語』の特徴は、人々の能力(機根)に合わせた具体的な修行法を説くことだ。まず、上品・下品のもとに上根・中根・下根を立てる。上品は、迷いを知らない人、下品は、久しく迷いを有する人とされる。その中で上根は、善知識の教えにより忽ち悟りに達する人、中品は、深奥な世界に心を寄せることで悟りに至れる人、下品は、目指すところを心にとめてもすぐ忘れてしまう人とされる。

『仮名法語』は、末法に入って200年たった、人々の能力が低い世を想定しており(このことから『仮名法語』の成立は1252年以降と分かる)、下品に対する救済の眼差しが強い。下品が意識的に悟れるよう心がけるのも難しい場合は、ひたすら坐禅をすることを勧め、末法には坐禅が万人に適した修行方法と説く。

加えて『仮名法語』は、女性二人に向けた法語も掲載しており、女性に対する禅の説き方を窺う重要な史料といえる。このように、修行者の能力を踏まえて禅の修行法を説く『仮名法語』は、先述の如々居士の著作などとも方向性を一にするといえ、『禅家説』全体に、初学者へ禅を示す一貫した意図があったものと思われる。

以上のように本書は、不明な点の多い能忍やその周辺の活動の実態を示す重要な史料を含んでいることに加え、大慧系の典籍を取り込み、末法の人々に対する具体的な禅の眼差しを示すテキストとして重要なものである。しかし、先述のとおり、収録された複数の禅籍の配置には、本書の一貫した意図が読み取れるものの、『禅家説』全体を能忍一門のものと断定してよいかについては、現時点では確証を得ない。

そのような中で、『禅家説』に収録される大慧系やそれ以外の中国禅籍の、当時の日本の禅宗界における受容の様相など、能忍周辺を探る上で確認すべき課題が残されている。こうした禅籍や『禅家説』の特徴が、鎌倉期の禅宗界に重大な影響を及ぼした『宗鏡録』のような禅籍などとともに、当時のどのような禅の潮流を形作っていたのかという視点からの検討も今後必要になるだろう。

●=臣+責