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「文化財」となった伊勢斎王の墓

成城大大学院 北井優那氏

2018年12月5日付 中外日報(論)

きたい・ゆうな氏=1995年、三重県明和町生まれ。現在、成城大大学院文学研究科日本常民文化専攻博士(前期)課程に在学。

三重県多気郡明和町の隆子女王墓は宮内庁の管理下にある陵墓でありながら、文化庁による「日本遺産」の構成文化財とされている。文化財の活用や地域の活性化のための「日本遺産」の一部として、陵墓はどのような価値を発揮できるのか。

古代から中世にかけて、伊勢神宮には天皇にかわって伊勢神宮の祭祀に奉仕する斎王が遣わされてきた。斎王とは、新たな天皇の即位に伴い卜定によって選ばれた未婚の内親王または女王である。斎王に選ばれた女性は禊祓を行い、その後、都から伊勢へと群行した。斎王が伊勢神宮へ赴くのは6月と12月の月次祭と9月の神嘗祭の年に3回であり、そのほかは斎宮に住んだ。その斎宮が営まれたのは、現在の明和町にあたる。斎王の任は天皇の譲位・退位、親の喪、自身の病気・事故がない限り続くが、これらの事態が生ずると斎王は斎宮から帰京した。しかし、伊勢で亡くなり都へ帰ることのなかった斎王もあった。それは垂仁天皇皇女倭姫命、雄略天皇皇女稚足姫、景行天皇皇女五百野皇女、醍醐天皇皇孫隆子女王(?~974)、そして後白河天皇皇女惇子内親王の五方である。このうち斎宮で亡くなった斎王ということで言えば隆子女王と惇子内親王の二方である。

さて、14世紀に斎王の制度が廃絶し斎宮跡の所在地は不明となったが、「斎宮」との地名は残り、幕末の文久2(1862)年のころには津藩主藤堂高猷は京都の一条左大臣(忠香)から「斎宮再興」の許可を取りつけた。これは後に断念されるが、明治14(1881)年に永島雪江らによって再び「斎宮再興運動」が開始された(『斎宮村郷土誌』)。

その2年後の明治16(1883)年には先にもみた斎宮で亡くなった二方の斎王、つまり隆子女王と惇子内親王の墓が俄然注目されるようになり、この二方の墓が宮内省に上申された。

隆子女王は安和2(969)年に斎王とされ、2年後の天禄2(971)年9月に伊勢へ群行した。天延2(974)年閏10月17日に疱瘡を患い斎宮寮で亡くなり、諡号は「小松女院」とされた。初めて斎宮で亡くなった斎王であった。その後、隆子女王の墓は所在地が失われ地域の住民からも斎王の墓だとは認識されなかったが、墓にまつわる伝承は語り継がれていた。それも根拠の一部となり明治16年3月20日に多気郡馬之上村戸長潮田又吉らから三重県令岩村定高宛てに、馬之上村の「小松塚」を隆子女王の墓とする「上申書」が提出された。これに対し同年7月9日に多気郡長永島雪江から馬之上村戸長役場宛てに、「小松塚」が「斎王隆子女王御墓ニ御決定」したことが宮内卿から県令へ達せられたとの文書が送られた。こうして「小松塚」は宮内省によって隆子女王墓と決定された。墓は現在も宮内庁職員によって管理され、命日を新暦に換算した12月7日には現地で正辰祭が行われている。

惇子内親王は仁安3(1168)年8月27日に斎王とされた。2年後の嘉応2(1170)年に伊勢へ群行したが、承安2(1172)年に痢病を患い亡くなり、諡号は「堀河斎宮」とされた。惇子内親王の墓も所在地は失われていたが、隆子女王の場合と同じ明治16年3月20日に多気郡有爾中村戸長潮田安兵衛らから三重県令岩村定高へ、有爾中村の「古陵」を惇子内親王の墓とする「上申書」が提出された。これについては明治17年2月7日の「斎王隆子女王御墓発見ヨリ確定ニ至ル手続往復書類控」の備考に「有爾中村ノ方ハ採用不成候事」と記されていることから、上申は不採用となったことがわかる。

明治期には斎宮村に存在した古墳の発掘作業が積極的になされ、出土品の調査も行われた。昭和8(1933)年には「斎宮再興運動」の主体は斎宮村役場となり、行政も関わる運動に発展した。終戦後には住宅開発に伴う事前調査によって遺跡の存在が明らかになり、同45(1970)年に明和町教育委員会が主体となって行った試掘調査から遺跡は斎宮跡であるとされた。さらに同54(1979)年には文化庁により国史跡に指定された。そして、同58(1983)年に惇子内親王伝承墓が地域の伝承を背景に、明和町教育委員会によって指定文化財とされたのである(『明和町史史料編第1巻』平成16年)。平成元(1989)年には三重県立斎宮歴史博物館が開館し、斎宮跡の発掘調査は現在もなお行われている。

このように明和町には隆子女王墓と惇子内親王伝承墓の2カ所の斎王墓が存在し、それぞれ宮内庁と明和町から管理されるに至っている。もっとも、これらの斎王墓の被葬者については必ずしも学問的な裏付けがあるとは言えない。しかしその背景には、地域の伝承と、斎宮跡が国史跡に指定され博物館が設立されるまでの地元の熱心な運動があったことは確かである。

では、明和町はこれらの斎王墓をどのように位置付けているのか。同24(2012)年の『明和町歴史的風致維持向上計画』では、惇子内親王伝承墓は前述の通り明和町指定文化財とされているが、隆子女王墓については宮内庁による管理がなされており明和町としての指定・管理はなされていない。しかし明和町はこの隆子女王墓を、斎宮関連の史跡を観光資源などに活用する文脈に確かに位置付けているのである。

文化庁が同27(2015)年に創設した「日本遺産」に、明和町の申請した「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」が同年4月24日に認定された。「日本遺産」とは文化庁が「地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを『日本遺産(Japan Heritage)』として認定し、ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の様々な文化財群を総合的に活用する取組を支援」(『日本遺産』文化庁文化財部記念物課発行)するものである。明和町は「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」のストーリーを「斎宮跡」や「斎宮跡出土品」などの斎宮・斎王に関する文化財によって構成しており、その中の「斎王の解任」の章で「隆子女王の墓」をその構成文化財としている。宮内庁の管理する陵墓が文化庁によって文化財とされることは、これまでは例外的な事例にとどまっていた。そもそも陵墓は皇室の祖先の御霊が眠る国民の尊崇の対象として宮内庁が管理するものであって、文化庁や各自治体が管理する文化財とはその在り方が根本的に異なる。ごくわずかの例外を除けば、宮内庁によって陵墓とされている場合、そこが文化財として指定されることはない。その点からみて、この度の明和町の例のように陵墓が構成文化財に含まれたのは大いに注目されることである。

しかし陵墓である隆子女王墓が明和町によって「日本遺産」の構成文化財とされた一方、明和町指定文化財である惇子内親王伝承墓は「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」のストーリーで紹介される場合もあるものの、「日本遺産」の構成文化財とはされていない。

この「日本遺産」には、文化財の活用、ひいては地域の活性化を図る目的がある。さらに改正された文化財保護法が同31(2019)年4月1日には施行され、文化財の活用がさらに促進されると思われる。しかし宮内庁の管理下にある隆子女王墓は、文化財としての活用を前提としていない。明和町によって隆子女王墓が「日本遺産」に組み込まれたことで、隆子女王墓の在り方はいかばかりでも変化するのであろうか。明和町にとって、斎王に関する史跡・文化財は他にかけがえのない地域に伝えられた「遺産」である。文化財を取り巻く状況が変化する中で「日本遺産」という枠組みを通じてその特色がどのように生かされるのか、陵墓がどれだけ開かれた文化財としての価値を発揮できるのか、これらの点について今後の動向についても引き続き注目したい。