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円爾系の印信から見る禅と密 ― 中世禅の再考≪8≫

東京大史料編纂所准教授 菊地大樹氏

2018年12月7日付 中外日報(論)

きくち・ひろき氏=1968年、東京都生まれ。東京大大学院修士課程修了。博士(文学)。専門は日本中世史・宗教史。東京大史料編纂所准教授。著書『中世仏教の原形と展開』(吉川弘文館)、『鎌倉仏教への道』(講談社)などがある。

弘安3(1280)年10月、ついに自己の死を覚悟した円爾(東福寺開山聖一国師)は、弟子に対して半月後に大涅槃に入ることを宣言し、ほぼその通りに17日、遺偈を認めると筆を投げて遷化した。この間の事跡の中で特に注目したいのが、8日から15日にかけ、円爾が3回にわたって法嗣白雲慧曉らに、天台密教の奥義を伝授したことである。

よく知られているように、円爾は最初天台僧として、駿河国久能山で研鑽を積んだ。ついで上野長楽寺栄朝のもとで参禅に励み、ついに入宋して無準師範に嗣法する。帰国すると、やがて九条道家の帰依を受けて京都に東福寺を開き、禅とともに天台教学の道場としている。

ただし従来は、参禅帰国後の彼にとって禅の優位は明らかであり、密教を含む天台教学は、あくまで禅と兼修する程度の位置づけを与えられたにすぎないと理解されてきた。このような天台教学との「雑修」のありかたは、のちに蘭渓道隆らによって確立された「純粋禅」の前段階として、一段低く位置づけられてきたのである。

ところが近年、純粋禅なるものが果たして歴史的にあったのか、といった根本的な見直しが進み、鎌倉時代における禅の地平は大きく様変わりしつつある。このような視点から、円爾が死の床において慧曉らに密教伝授を行ったことをとらえ返してみると、もはやその宗教的な意味が副次的なレベルにとどまるとはとても思えない。

さいわいなことに、この時に慧曉が円爾から授与された印信約50通が、現在も東福寺栗棘庵に残されている。印信とは密教において、伝授すべき印や真言を記すとともに、師資相承の正統性を証明する文書でもある。東福寺では、円爾の没後しばらくすると密教を含む天台教学の伝統は絶えたと思われるが、印信群は祖師の墨蹟の一種として珍重され、現在に及んだものであろう。禅宗寺院に密教の印信が伝わること自体、常識的には奇異であり、禅学研究者からも内容的には注目されることはなかった。

しかし、禅密関係の見直しの流れにこの印信群を位置づけることで、円爾の教学体系がさらに明らかになろう。ひいてはその系譜に連なりながらも、それぞれに性格の異なる印信群を伝える、大須観音真福寺をはじめとする多くの寺院において、鎌倉・南北朝期にどのようなダイナミックな禅密思想が展開していたかを模索することが可能になる。

まず「栗棘庵印信群」を整理してみると、円爾が台密の主流をなす谷流の相承に連なることが分かる。平安時代中期の延暦寺僧で、山林修行者でもあった皇慶を祖とするこの流派の伝授は、胎蔵界と金剛界の灌頂儀礼を個別に行う両壇灌頂を実施した上で、さらに両界を一体化させた合行灌頂を行うことに特徴がある。円爾は直接にはこの灌頂を、入宋前に上野国長楽寺の栄朝から受けていた。長楽寺もまた、関東における禅密の道場として大いに栄えたが、円爾は栄朝を通じて、さらにその師である栄西の法流を受け継いだのである。したがって、円爾は栄西に始まる台密葉上流に連なるのであると従来理解されてきた。

そこで伝授の内容を詳しく見てゆくと、「栗棘庵印信群」は主に谷流のうち、蓮華流および穴太流から構成されている。それらのうち、円爾は特に後者を意識していた。さらに彼はこれとは別に、のちに阿忍や見西といった密教僧からも「秘密灌頂」あるいは「瑜祇灌頂」といわれる独特の灌頂、つまり栄西を経由しない別の穴太流を承けている。

これは、円爾が栄西の法流に満足せず、なお究極の台密伝授を模索していたことを暗示してはいまいか。特に見西は、円爾の台密体系に決定的な影響を与えていた。『渓嵐拾葉集』は、見西を栄西弟子であるとするが、両者の師弟関係については疑問もある。むしろそこに続けて述べられているように、見西が禅密関係を論じながら、密教の優位を主張していることこそ、注目に値しよう。

それでは、円爾の台密法流や禅密教学は、その後どのように流布し、展開していったのだろうか。複数の円爾の法嗣の中で特に異彩を放つ人物が、癡兀大慧である。大慧は最初密教僧で円爾に法論を挑むが、その学識に感じて改衣嗣法した。大慧の教学、特に密教思想については従来ほとんど不明であったが、大須文庫の中には『灌頂秘口決』他、大慧の密教説を寂雲ら弟子が筆記した複数の典籍が残されていることが分かってきた。それらの一端が中世禅籍叢刊に紹介されたことで、彼の密教の体系が明らかになることが期待される。

寂雲の弟子には、真福寺開山の能信らがおり、現在伝わる写本も彼らの手になる。これらの典籍の内容および特徴は、いっしょに伝えられた「真福寺印信群」と対照することで一層理解しやすくなる。「真福寺印信群」は三流からなるが、このうち鎌倉時代後期以降、大慧―寂雲―祐禅―能信を基本として、師弟間で次々に相承された印信群を、特に「安養寺流印信」と呼びならわしている。安養寺とは伊勢国上野御園(三重県明和町)にあり、同国泊浦(同県鳥羽市)大福寺(廃寺)とともに大慧を開山とする。先述の大慧述聖教の奥書には、しばしばこれらの寺院塔頭所蔵本を書写した旨が見えるので、この法流を「安養寺流」と呼びならわすようになったものであろう。しかし、「安養寺流」なることばは同時代史料には見られず、江戸時代にようやく寺内外に定着した。

現在臨済宗である安養寺にもまた、印信群が現存する。この「安養寺印信群」は、主に大慧から空然を経て寂誉に与えられたものであるが、「栗棘庵印信群」の系譜を引き、これと同じく台密の体系を持つ。ただし、「安養寺印信群」には見西伝授に関わる部分が伝来していない。

これに対し、特に注意しなければならないのは、真福寺で「安養寺流印信」と呼ばれているものが、じつは東密三宝院流の体系を基本とすることである。この法流は三重相伝を特徴とし、初重では金剛界・胎蔵界各別の印と明(真言)を示す。ところが二重では一印二明となり、ついに三重では一印一明となって、金胎一致の世界観を提示するに至る。

つまり、このように理解できよう。円爾は大慧に台密系の印信群を与えたが、慧曉には与えた円爾の法流の核となる見西方印信は伝授しなかった。ともあれ、大慧が受けた台密系印信の体系は安養寺に受け継がれていく。いっぽうこれとは別に、大慧は東密三宝院流の体系も伝持しており、これこそが「真福寺印信群」三流の一つとして受け継がれた「安養寺流印信」であった(ただし、先述のように安養寺に直接由来するものとは考えられない)。

つまり大慧の段階では、東密・台密(天台教学全体を含む)が併せ伝えられていたが、さらに加えて禅も伝持され、総合的な仏教の体系が築かれていた。その一端は、『灌頂秘口決』にも明らかである。

ここでは前半で、東密三重相伝の灌頂体系についての理論を示したあと、後半では仏身論などについて、真言・天台教学と禅とのダイナミックな比較が盛んに行われていく。台密教説についてはここでは顕在化しないものの、印信もあわせて考えると、胎金冥合する台密谷流の合行灌頂を特徴とする円爾と、金胎不二に至る東密三宝院流の三重相伝を重視していた大慧の立場とは、かなり近接している上に、禅も加えた三教の会通が図られていたのである。

印信群の相承過程から見ると、大慧自身は東密・台密両流の伝授を承けていたが、次の世代にはそれを分けて伝えていたことが分かる。さらに真福寺聖教に見られる伝承によれば、大慧の弟子寂雲は、密教を能信に伝え、禅を大海寂弘に伝えたという。円爾から大慧に至る流れは、密教における両界の二元的世界を統合し、さらには東密・台密の主要な法流をもあわせて、天台や禅の教学・実践も加えながら体系化を試みる、まことにダイナミックな教学体系を志向していた。

これはもはや単なる「兼修」、すなわち複数の教学系列を並行的に束ねたような雑然とした体系ではなく、それらを相互に関連・融合させてハイブリッドな一元論を志向する高度な思想的達成であると評価できよう。

ところが鎌倉時代後期以降、ここからふたたび教学を切り分け、個別に伝えてゆく傾向が顕著となる。まもなく禅密体系は解体し、禅宗寺院は南北朝期には組織的にも教学の上でも自立を達成していくのである。それは、どのような思想的・時代的要請にもとづいているのだろうか。栄西の時代から、円爾・大慧を通じてさらに能信ら南北朝期を生きた宗教者までを見通した上で、鎌倉仏教論の再構築が求められている。