ニュース画像
御親教する常磐井法主(中央)と復演を担当した栗原鑑学(左)
主な連載 過去の連載
エンディングへの備え
時代を生きる 宗教を語る
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

「茶祖、禅始祖」としての栄西 ― 中世禅の再考≪9≫

神戸学院大准教授 米田真理子氏

2018年12月12日付 中外日報(論)

よねだ・まりこ氏=神戸学院大法学部准教授。博士(文学・大阪大)。専門は中世文学。主な論文は「『喫茶養生記』再読―栄西による主張の独創性とその継承―」(『比較思想から見た日本仏教』山喜房佛書林、2015年)、「無住における密教と禅―栄西「禅宗始祖」説を考える」(『説話文学研究』52号、17年9月)など。

お茶を飲むというと、どんな飲み方を思い浮かべるだろう。茶葉に熱い湯を注ぐ。湯の量と葉の量は好み次第で。これは、今から800年ほど前に、栄西(1141~1215)が『喫茶養生記』に記した「喫茶法」である。原文には、「白湯(只の沸水を云ふなり)極めて熱きをもて之を点服す。銭の大きさの匙に二三匙、多少は意に随ふ。但し湯は少きが好し、其れ又意に随ふと云々。殊に濃きを以て美となす」(初治本・原漢文)とある。

沸かした熱い湯を用いる。銭の大きさの匙とは、ティースプーンぐらいであろうか。それに2、3匙。「方寸匙」(再治本)と記す本もあり、これなら3センチ四方の匙。多い少ないはお好きなように。茶葉は、桑葉の服用法に「末にすること茶法の如し」とあるから、細かく砕いたものであろう。湯は少ないほうがよいが、それもお好みで。とりわけ濃いめが美味。これが栄西が示した喫茶法であり、末尾に栄西の嗜好もうかがえる。

栄西といえば、茶祖として知られ、今なお讃仰されている。では、茶祖とはどういう人を呼ぶのか。素直に解すれば、日本に最初に茶をもたらした人物である。しかし、栄西より前、平安時代から、日本で茶は飲まれていた。

茶の初見は平安期

最澄や空海がもたらしたとする説もあるが、正史での茶の初見は、『日本後紀』の弘仁6(815)年4月に大僧都永忠が嵯峨天皇に茶を献上したとする記事であり、同年6月には嵯峨天皇が畿内・近江・丹波・播磨等に茶を植えさせたことも記している。つまり、平安時代にすでに茶は飲まれ、茶樹の栽培も行われていたのである。そこで出てきたのが、日本の茶は一旦廃れ、鎌倉時代になって再び、栄西が中国から持ち帰ったとする説である。

こうした議論は、江戸時代以来、現代に至るまで何度も繰り返されてきた。あるいは、栄西が抹茶法を将来したとする説や、禅宗寺院での茶礼の布石とみなす説もある。それらに共通するのは、栄西に始発を求める視点であり、いずれも茶祖説の代替案といってよい。

結論を先に言えば、文献に最初に見られる茶の将来者は、明恵である。後に、その役割が栄西へと転じた。入宋経験のない明恵に代わって、2度入宋した栄西が呼び出されたのである。このことを前提にすると、栄西が、茶の何をもたらしたかを議論することでは、問題の解決にならないことは理解しやすくなる。

ただし、ここには栄西の禅の始祖としてのイメージも重なり、問題を複雑にしている。『喫茶養生記』は、密教の教説に基づき記されたもので、禅に関わる事柄は出てこないが、本書と禅の関わりは長らく論点の一つとされてきた。栄西が、入宋して禅を受け、帰国後に『興禅護国論』を執筆したことから、禅僧に転じたかのように捉えられ、日本に初めて禅を伝えた人物と認識されるようになったことが、栄西と茶の関わりを考える上にも影を落としてきたのである。

栄西の実像を知るには、その著作が第一の史料となる。『中世禅籍叢刊』の第1巻として刊行された『栄西集』は、『改偏教主決(教時義勘文)』『重修教主決』『結縁一遍集』『胎口決』『釈迦八相』『法華経入真言門決』を収録する。その中で、『改偏教主決』と『重修教主決』は、大宰府原山の僧・尊賀との間に起こった密教の教主をめぐる論争を書き留めた書である。

28歳と47歳で入宋

この論争自体初めて知られる事跡であるが、栄西が自らの立場を語る箇所等には、栄西の動向を探る手がかりが散見される。それは、『興禅護国論』が、叡山からの禅排斥の訴えに対して編まれた書であり、栄西が自らの体験を記していることと軌を一にする。では、栄西の著述をもとに、その思想形成の軌跡をたどってみることにしよう。

栄西は比叡山で学んだ後、入宋の志を抱きつつ、伯耆国大山で基好に師事し、やがて仁安3(1168)年、28歳の時に渡海を果たす。出発前の博多で、通事から宋朝での禅宗の広がりを聞き、入宋してすぐ、禅院で出迎えた僧に、最澄が伝えた禅は「今遺欠す。予、廃せるを興さんと懐ふが故にここに到る」(『興禅護国論』)と述べたと記している。

帰国後、次の渡航までの間に、『興禅護国論』には、最澄の「仏法相承譜」、円珍の「教相同異」、安然の「教時諍論」によって叡山での禅の伝灯を知ったと記し、『入唐縁起』では、「他事無く真言の聖教を学す」と記している。『改偏教主決』での、原山の僧との密教教主をめぐる論争が繰り広げられたのも、この時期のことである。『重修教主決』には、文治3(1187)年正月の日付が確認でき、「予、今春纜を解くに当たれり」とあるように、この年の渡航の直前まで、執筆活動を続けていた。

2度目の入宋は、同年4月、47歳の時。印度を目指して出帆し、大陸に着いたものの、国交断絶により、建久2(1191)年までの足かけ5年、中国に滞留した。その間に虚庵懐敞から禅を受けたのである。その後、建久元(1190)年に、天台山で『秘宗隠語集』を執筆している。これは入宋前の治承5(1181)年に、弟子に授けた書を再編したものである。

帰国後は、『興禅護国論』を執筆したとされる建久9(1198)年に、師の基好から密宗最極の秘法を受け、元久元(1204)年には、博多の聖福寺で弟子の厳琳に「不動許可」の説を授けてもいる。以降、最晩年の『喫茶養生記』に至るまで、密教僧としての活動は続き、並行して禅の修学も続けたものと推測される。

今につながる茶法

このように見てくると、栄西にとって、禅は、密教と共に叡山の受け継ぐべき伝灯の一つであり、二者択一を迫るようなものではなかったことがわかる。栄西は、叡山での禅の欠如を知り、その再興を自らの課題とした。中国で禅を受け、それまで培った知識にどう位置づけるかがさらなる課題となった。

栄西の禅の受容には偶発的な面があったが、次世代の弟子たちは、自らの意志で中国の禅林で学び、密教と禅の比較も具体化していった。このように中世の天台僧が禅を学ぶ営為において、栄西は、その道を拓いた先人とみなすことはできるであろう。

そして時代が下るにつれ、栄西の禅の側面が重視されるようになる。その萌芽は、『沙石集』(1283年成立)に認められる。著者である無住は、栄西の法流は戒律・天台・真言・禅門・念仏を修するとしつつも、禅の事跡に焦点を絞り、『興禅護国論』から「我滅後五十年に、禅門興すべし」を引用して、蘭渓道隆による宋朝禅の弘まりをもってその実現とみなした。さらに、『元亨釈書』(1322年成立)は、「今の学者、西を推して始祖と為す」と記しており、ここに至って、栄西の禅の始祖としての姿は顕現する。

栄西は、日本に初めて禅を伝えた人物ではない。また、日本に茶をもたらしたという意味での茶祖でもない。しかし、日本の禅と茶の歴史に多大な貢献を果たしたことに違いはない。『喫茶養生記』は、本邦初の茶書であり、栄西が示した「喫茶法」は、今の我々の飲み方にもつながる。『喫茶養生記』は、独創的なアイデアに満ちた、ユニークな書であり、今後、より自由な視点から読み解くことで、日本の茶の新たな一面も見えてくるだろう。

そして、中世禅籍叢刊全12巻が刊行されて、栄西の思想は、多角的なアプローチが可能となった。例えば、栄西に密教の宗趣を聞いた虚庵懐敞は、我が禅宗と同じだと述べたというが、栄西の密教の書に、鎌倉後期以降の禅に通ずる要素は見いだせるだろうか。また例えば、聖一派の書とのつながりはあるのか。院政期から鎌倉時代へと移行する時代において、栄西が果たした役割は、まだ解明されていない点が多い。新しい地図が描けるかは、読み手の柔軟なものの見方と模索力にゆだねられている。