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「兼修禅」から「純粋禅」を再考する ― 中世禅の再考≪10≫

国文学研究資料館准教授 ダヴァン・ディディエ氏

2018年12月19日付 中外日報(論)

ダヴァン・ディディエ(Didier DAVIN)氏=東京大に4年間留学。2年間はインド哲学、2年間は東洋文化研究所に在籍。その後、パリの高等研究実習院で博士号取得、フランス国立極東学院東京支部の代表として赴任。2016年4月から国文学研究資料館准教授。

『中世禅籍叢刊』シリーズが見事に表しているように、この数年の間、鎌倉時代の禅宗の研究が著しい活気を見せた。新しく発見された資料を中心に刺激的な観点が提供されて、また既存の説が問い直されて議論を生じさせてもいる。その成果は様々でまだ議論が尽きず、さらなる研究を要する点もあるが、鎌倉禅の研究の新しい出発点が築かれたといえよう。

というのも、禅に様々な形があることを認めたうえで、その多様性を複数の文脈の中で考えるべきであることが再確認されたからである。鎌倉時代の場合は「禅宗」が様々な実態を指していることは、もはや言うまでもないであろう。天台宗の教え全体の一部として見ていた栄西の禅宗、密教と禅の融合を唱えた聖一派の禅宗、または禅の立場から他宗の教えとの関係を巧みに論じた夢窓疎石の禅宗などは、全く異なる禅でもなければ、同一物とも言いがたい。これらの禅宗は、扱いの厄介な代物なのである。そのため、鎌倉時代の禅をまとめて語る事は非常に難しい。

しかし、それでも全体を見れば、大きな特徴や共通する意識は存在すると考えられる。それを禅研究史に散見するキーワードで言うならば、「兼修禅」である。この表現自体が長年軽蔑的な響きを含んでいたことは周知の通りであるが、最近その意義が再考されてきている。禅の有るべき姿であるとされる「純粋禅」の前段階でもなく、その異端的な傍系の禅でもなく、禅宗の歴史――より広く言えば日本仏教の歴史――に大きな地位を占めた禅の一つの大事な「顔」であったと見直された。敢えて言えば、近年の鎌倉禅研究の重大な成果は「兼修禅」の復権にあるといえよう。

しかし、よく考えれば「復権」という言葉は相応しくないのかもしれない。何故なら、「兼修禅」は現代の表現なのであって、「兼修禅」が肯定された時代があったわけではないからである。大抵の場合は栄西の天台や円爾の密教と禅の兼修を指しているが、もちろん鎌倉の禅僧たちが自分たちの修行は「兼修禅」であると主張していなかった。しかも、他流派から批判を受けた痕跡もない。

例えば、しばしば「純粋禅」を最初に日本に伝播したとされている蘭渓道隆と「兼修禅」の代表者の一人である円爾弁圓が互いに尊敬し高く評価し合っていた事は、すでに指摘されたことである(注1)。そもそも、その反対語になっているのが「純粋禅」である事だけでも明らかなように、「兼修禅」という表現そのものに大きな価値観が含まれている。

表現自体は今枝愛真の『禅宗の歴史』(至文堂、1962年)で初めて登場するというが、その考えの由来を探れば明治時代まで遡れるそうだ(注2)。つまり、純粋禅/兼修禅の対立は比較的最近の見解であって、近年の研究がその歴史観の型を破ったといえるのである。

しかし、ひとつの問題が残る。「純粋禅」が近代に作られた概念ならば、それはなぜなのであろうか? そして偏見は偏見でも、具体的には何を指しているのであろうか? さらには「兼修禅」との対立が不適切だとされたため、単に「兼修禅」だけではなく「純粋禅」の意味も問い直す必要が出てきた。なぜなら、もはや「本物の禅」「あるべき姿の禅」と簡単に答えられなくなったからである。

観点を少し変えてみよう。鎌倉時代の禅の大きな課題は、仏典に基づいていた「教」(経典に見られる言葉で説明できる教え)と教外別伝に以心伝心で代々に伝わった「禅」(悟りの体験をもってしか伝わらない教え)の関係である。これは集団としての「禅宗」と諸宗との交流に勿論関係するものではあるが、禅宗内においても大きな問題点であった。そして、多様な鎌倉時代の禅宗にある共通点に観点を戻すと、どんな禅の宗派であっても教にはしかるべき地位が与えられていたといえる。天台、密教、或いは仏教全体との共存は色んな体制に組み込まれていて、そこに鎌倉禅研究の複雑さの大きな理由がある。

鎌倉末期になると、禅宗内の中心となって、政治的な強い影響力を持っていた夢窓疎石も、禅の優位を前提にしながらその他の教えを認めていた。その詳細は分かりやすく『夢中問答集』に説かれており、そこには逸材たる夢窓の独特な見解と共に、鎌倉禅が共有していた「教」と調和しようとする一種のコンセンサスも表されている。

そのコンセンサスを破って禅に新しい方向を取らせたのは、大徳寺開祖の宗峰妙超(大燈国師)であったと考えられる。大燈の夢窓への批判は、たとえば『祥雲夜話』というテキストによく表れる。そこで、釈尊が経典に書かれてある事を説いたのはただ「止啼の説」――つまり泣き声を止ませるための方便――だけであって、それは禅の教えにあらずと主張する。

大燈曰く、自分も必要に応じてその教を説く時があるが、「只是れ迂曲の方便なるのみにして、吾が宗の直指に非ざる也」と断ずる(注3)。つまり、鎌倉時代に「教門」と「禅門」をどう共存するかは禅宗内の重大な課題だったが、大燈、そして後に大燈派は、禅宗には禅門しか認めないという態勢を取った訳である。

その背景には、大燈の時代に莫大な影響を持っていた夢窓疎石、また後に五山の主流になる夢窓派を意識していた事があったと考えられるが、帰結としては「禅門」――具体的には公案に基づいた修行――に再び集中する事になった。

それを裏付ける事として、安藤嘉則氏に指摘されたように、現代の臨済宗では公案参究の重要な公案集は『宗門葛藤集』だが、その作成過程を遡れば大燈が編纂した『大燈百二十則』に至る(注4)事が挙げられる。無論、単純に大燈派は専ら看話禅しかしなかったと言える訳ではないし、文学や教学など完全に縁を切ったとも言えないだろう。だが、様々な理由で近世に力を増した大燈派が、日本禅の新しいあり方を切り開いたと思われる。

室町以降の禅は、しばしば評判の悪い「密参禅」の時期に入る。その時の公案参究の様子は「密参録」と呼ばれるテキストに記されるようになった。それは回答集のような物と言われ、禅僧達がそれを使っていかさまに形だけの公案突破をしていたとみられる。

そうした評価をしていた鈴木大拙は、密参禅を「変態禅」と厳しく批判していた。しかし、飯塚大典氏や安藤嘉則氏の研究で分かるように、この見方は些か過小評価である。よく見てみれば、当時(室町末期から近世中期にかけて)の公案に対する禅宗の態度が表れていて、いまだに理解され切れていない中近世の禅(臨済と曹洞両宗)のありようが描かれている。

また、密参禅になったこと自体が、どれほど看話禅が重要になっていたかも物語っている。そこに様々な特徴があるが、明確なのは、中国から伝播された純粋禅に戻ったというのではなく、むしろ日本に成立された新しい方向を歩んだということなのである。

近世には大燈派に属する妙心寺が主流になり、そこから白隠――そして所謂白隠禅(その区別は重要)――が出現するようになり、概ね現代の臨済宗の禅に至っている。つまり、「純粋禅」の歴史観が近現代に出来た時には、その大前提には白隠禅があったといえる。では、「純粋禅」という言い方で何が指されているのか。それは、中世末期から作り上げられて、やがて日本の主流となった禅が描いた理想の姿であろう。

(注1)和田有希子、「鎌倉中期の臨済禅:円爾と蘭渓のあいだ」、『宗教研究』77(3)、629~653ページ、2003年。
(注2)岸田(和田)有希子、日本中世における臨済禅の思想的展開、東北大博士課程論文、未刊行。
(注3)オズヴァルド・メルクーリ、「夢窓疎石と宗峰妙超の方便思想の比較―『西山夜話』と『祥雲夜話』を中心に」、『禅文化研究所紀要』31、287~313ページ、2011年。
(注4)安藤嘉則、「『大燈百二十則』から『宗門葛藤集』へ」、『駒澤女子大学研究紀要』9、1~24ページ。