ニュース画像
御親教する常磐井法主(中央)と復演を担当した栗原鑑学(左)
主な連載 過去の連載
エンディングへの備え
時代を生きる 宗教を語る
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

激動期の禅僧 徹翁義亨

花園大名誉教授 竹貫元勝氏

2019年1月3日付 中外日報(論)

たけぬき・げんしょう氏=1945年、京都府生まれ。花園大卒、大谷大大学院博士課程満期退学。文学博士。『日本禅宗史研究』『宗峰妙超 大燈を挑げ起して』『京都・紫野大徳寺僧の略歴』など著書多数。

大徳寺開山宗峰妙超(大燈国師)は、建武4(1337)年12月22日の示寂を前に大徳寺の後任住持を定めた。宗峰妙超(1282~1337)に随従した期間が長いこと、大燈禅悟徹の人であること、大衆に周知された禅者であること、衆に慈悲の心で接し、学徒の育成にあたれる人であることなどの視点で人選された。

大燈国師の席下には、京都東山で聖胎長養している最中から師事し、「牛窓櫺を過る話」の公案を透過し、さらに紫野徙居にも随従して、大燈禅を修めた徹翁義亨(天応大現国師)がいた。大燈国師はその徹翁義亨(1295~1369)を「当山第一世の住持」に指命し、常用の「法衣を付」した。暦応元(1338)年3月26日、勅を奉じて大徳寺に入寺開堂した徹翁は、これより大燈禅をかかげ、護寺発展に尽力する。

ところで、大徳寺は花園天皇・後醍醐天皇に依って両朝の祈願寺となり、住持制は大燈国師の一流相承であった。ことに後醍醐天皇は五山の其の一、南禅寺と並ぶ上刹の寺格とするなど大徳寺に関心を高くし、寺領を寄進して寺勢の興隆を図り、元弘3(1333)年頃には「七千六百石」もの土貢が入る寺領を有した。しかし、大燈国師晩年の建武期になると、花園天皇は妙心寺を開創して大徳寺を離れ、後醍醐天皇の建武政権は倒れて室町幕府の成立がなり、政権が替わった。

室町幕府は、暦応4(1341)年に五山位次の評定を行い、翌暦応5年4月23日に沙汰し、大徳寺を五山から外した。後に十刹に列せられるが、五山保護政策を進める室町政権下での大徳寺は、展開に暗雲迫る転換期を迎え、山隣派への道を歩むことになる。

応仁の乱で焼失

この期の大徳寺住持となった徹翁について、『天応大現国師行状』は「寺前の地に相して別に山を開く、山名は霊山、寺号は徳禅、池を鑿ち石を畳む、宛塵外に有り」と、徳禅寺の開創を記す。この禅寺は大徳寺の隣接地に創建され、山号の霊山は、禅宗のはじまりの話にある「霊山会上」に因っているのであろう。境内には正伝庵が建てられ、竹影閣が設けられており、庭園が築かれて処々に石が立置かれ、それを諸尊像であると言明する。大徳寺文化(紫野文化)形成の萌芽を知る禅刹の創建ともいえる。正伝庵には諷経の経典とその回数などに関して詳細に規定し、仏舎利感得の因縁などを記した「正伝庵法度」が「徳禅寺法度」とは別に制された。しかし、徳禅寺は応仁の乱で焼失し、一休禅師が再興した。今日、大徳寺に所在する徳禅寺がその寺史を刻む名刹なのである。

徹翁に帰依する人物には、室町幕府第2代将軍足利義詮(1330~67)、正伝庵に播磨平井庄・寺田村などを寄進した尊胤法親王(梶井宮尊胤法親王・梶井二品親王)、若狭の名田庄を寄進した花山院中納言兼信(法名、覚円)、若狭国名田庄井上村の寄進者藤原行清、さらに日野中納言、摂州国造住吉神主国夏、赤松則祐など多くを数える。徹翁をとりまくそれらの人を徳禅寺の外護者とし、その寺領を財源に展開が図られた。しかし、それは大燈禅の法灯堅持と大燈国師の開創寺大徳寺の護寺を第一義とするものであった。そのことを看過してはならないのである。

貞治6(1367)年9月13日、足利義詮が「大徳寺并徳禅寺住持職、同法度」について御判御教書で認め、同年10月7日に後光厳天皇から「大徳寺・徳禅寺住持職并法度事、武家証状備叡覧候了」と、その御教書を認める綸旨の下賜があった。これに依って、一に両寺の住持は徹翁の「器用の門徒」による「門弟相承」とすること、二に徹翁による「大徳寺法度」と「徳禅寺法度」の制定を承認することの2点が公認された。

大徳寺下の筆頭

一の徹翁の門弟に依る住持相承は、徳禅寺と大徳寺が大燈国師―徹翁の師資の法系に依る継承となり、徹翁の一流相承刹になったことを意味する。これは厳密に見ると大徳寺住持制度の変更である。宗峰妙超の一流相承刹では、大燈国師の法系にある弟子のいずれにも住持資格があったのに対し、大燈派の中の徹翁の法系に限定されることになったのであり、徹翁派に限り大徳寺住持資格を有することになる。住持に相応しい人材、資質、職務などは、大徳寺と徳禅寺ともに同じ内容で規定される。従って徳禅寺住持者は、大徳寺住持の人材として適合し、大徳寺住持は前住徳禅の経歴を有することが必定となって、徳禅寺住持が大徳寺住持になる登竜門となり、それが公認される。

二の「大徳寺法度」と「徳禅寺法度」は応安元(1368)年に成るが、大徳寺と徳禅寺の両寺の関係に視点をおいて見ると、「徳禅寺住持、両寺会合の時、位次のこと、本寺東堂西堂の次ぎ宜しく定席とすべきなり。行道の時、両班の次ぎに宜しく行道すべきなり」と、徳禅寺住持が大徳寺に会合したときの座席位置は、大徳寺の東堂・西堂に次ぐ下の席であり、堂内をめぐる行道のときは大徳寺の東班・西班の後に列することと規定する。この座位規定は、大徳寺と徳禅寺の本末転倒を回避し、徳禅寺は大徳寺を超える地位になることはないが、大徳寺下の筆頭とする位置付けが確定されたことを意味する。

「徳禅寺法度」には住持以下諸役職の人材や選任手続き、役職者の俸給などについても詳細に規定し、徹翁が理想とする禅寺運営を図っていることが分かるが、実にそれは大燈国師の大徳寺運営の基本精神に通ずるものであって、それを徳禅寺に具現したものと考えられる。室町幕府の禅宗統括政策下で、大徳寺の管理運営体制に変更を余儀なくされる事態が起こっても、別刹の徳禅寺には及ばないのであり、開山在世期の大徳寺の法灯が徳禅寺に保持される。燈徹体制を徳禅寺に大徳寺絡みで確立しておくことの意義はそこにあった。

維持費拠出の任

さらに徹翁は「徳禅寺法度」に、「当寺毎年所出の土貢に随い、五分一を分かちて大徳寺仏殿修造料足としてこれを寄付するなり。若し仏殿修補に余れば、法堂、僧堂、庫裏以下破損の堂舎修補」と、徳禅寺の寺領から入る土貢の二割を大徳寺の仏殿修造費として納金し、剰余金が出たときは法堂など破損した堂舎の修造費用に充てることとした。

ここに徳禅寺は、大徳寺維持費拠出の任を担っている事が分かり、大徳寺の退転という危機的状況をも考慮していた徹翁を見出す。事実、大徳寺領からの土貢収入は漸減し、また新たな獲得による財源拡大などは容易なことではない状況にあった。その大徳寺の堂宇整備と寺観保持の経済的支援体制の構築を新たに創建した徳禅寺に実現したのである。「大徳寺法度」に「当寺者始無檀那、開山自以一力興行了也」と、大徳寺の創建は檀越外護者に依ることなく、大燈国師の一力で成ったことを昂揚して、大燈国師に尊崇の意を表し、護寺を誓う徹翁であった。その具体策は、大燈禅嗣法者の育成と財的支援を担う徳禅寺の創建に見られ、大燈国師の「法」と「寺」を守る拠点を築いたのである。ここに時代の転換期の渦中にある大徳寺の行く末を案ずる徹翁が意図した一寺開創の真意を知る。

かかる徹翁であったが、大徳寺に一住三十年、但州の安養寺など地方に寺を開創し、言外宗忠などの法嗣を出して大燈禅を後世につなぎ、応安2年5月15日、世年七十五、法臘五十六をもって遷化した。爾来、650年、嘗て一休や沢庵が大燈国師とともに徹翁を崇敬し、高くかかげた歴史がある。それを踏まえた上で、これからの禅宗のありようを考えるとき、示唆的ではあるが激動の転換期に生きた禅僧徹翁に得るものがあるように感じる。この機会に徹翁を顕彰し、今日的視点での注目もあればと思う。