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中世禅への新たな視野 ― 中世禅の再考≪11≫

名古屋大人文学研究科付属人類文化遺産テクスト学研究センター教授・センター長 阿部泰郎氏

2019年1月23日付 中外日報(論)

あべ・やすろう氏=1953年、横浜市生まれ。大谷大大学院博士後期課程単位取得退学。名古屋大人文学研究科付属人類文化遺産テクスト学研究センター教授・センター長。著書に『中世日本の宗教テクスト体系』『中世日本の世界像』(共に名古屋大学出版会)などがある。

名古屋大によって四半世紀にわたり行われている大須観音真福寺の大須文庫悉皆調査は、数次の科学研究費により継続され、その成果は『真福寺善本叢刊』(国文学研究資料館編、臨川書店、全24巻)として学界に提供された。それを元により包括的な真福寺聖教全体のアーカイヴス化を目指し、推進する機関として、人文学研究科に付属する人類文化遺産テクスト学研究センター(CHT)が創設された。そのアーカイヴス部門では、大須文庫をはじめ、中部から全国に及ぶ宗教テクストの儀礼や図像を含む宗教文化遺産のアーカイヴス化と、人文学の先端・総合研究としてのテクスト学探究に取り組んでいる。

新たに採択された基盤(S)「宗教テクスト遺産の探査と綜合的研究」により、その実施と、CHTを拠点とする人文学各分野の研究者・機関との相互連携と共同研究が可能となった。5年間の計画対象のひとつが、真福寺聖教の特色である禅関係文献の本格的な調査と紹介であり、その目的は、既に知られていた金沢文庫寄託の称名寺聖教中の禅籍と併せて総合的な集成を企て、中世前期の禅の思想をテクストそのものによって語らしめることであった。

常識的認識変更へ

『中世禅籍叢刊』に収められた、大半が新発見資料の禅籍文献群は、中世禅の世界に画期的な新たな視野をもたらした。それは、後世に形成された常識的な禅についての認識を大きく改めることを要請するものであり、禅学研究のみならず、仏教史や思想史の研究者が無視することのできない質と量を伴って出現した。その中には、栄西の『改偏教主決』や、達磨宗の聖教法語集『禅家説』のように、断簡と化した大量の聖教集積中から撰りだされて解読・復元して蘇った書物も含まれる。

とりわけ重要なのは、『聖一派』等に収められた、東福寺開山聖一国師、円爾弁円の晩年の一連の著作、文永7年から11年にかけての、大日経とその疏・義釈と瑜祇経という密教の経疏の談義聞書が大須文庫から出現したことである。無住一円が東福寺に参学し聴聞した談義も含まれており、それもやはり断簡から見いだされたものである。

東福寺は九条道家が創建した、顕密仏教のうえに禅を加えた総合仏教の中心拠点である。その教学を担った円爾が講じていた内実は、密教の奥義を禅思想を以て解釈し超克・統合するという、まさに総合仏教の統合を企てる議論であり、その実践方法が談義という注釈テクストにおいて生みだされていたことは興味深い。

円爾の東福寺における顕密禅の融合的所産の筆受者であり継承者であったのが、のち伊勢に下り安養寺を拠点とした仏通禅師癡兀大慧である。真福寺初代能信が、大慧の法嗣である伊勢泊浦大福寺の寂雲から、真言三宝院流の金剛王院方を伝受すると共に、塔頭経蔵の祖師「御自筆本」の書写を許されたことにより、円爾と癡兀大慧の著作聖教、また大慧と寂雲の間で形成された、所謂安養寺流聖教が真福寺にもたらされ、また能信はそれに依って密教の経疏の談義を営む談義所としての活動を展開したのである。本叢刊に収めた安養寺流聖教の全貌からは、禅が顕密仏教の法流相承の裡に一体化して流通する実態が明らかになり、それは共に伝えられた印信が如実に示すところでもある。

流布への危機感も

この叢刊の最大の特色は、第7巻『禅教交渉論』にある。円爾がもたらした禅は、天台・真言・南都諸宗に大きなインパクトを与えた。それは、顕密仏教を禅と融合させ、超越するより高い境地(円爾は「無相」という要語で示す)として禅が提示され、またその教義への帰依が摂関や院にまで及ぶ、広汎な社会的影響力を有したからであろう。天台記家光宗の『渓嵐拾葉集』「禅宗教家同異事」には、円爾はじめ道元や栄西、蘭渓道隆などの活動と主張を、天台教学の立場から批判する問答が展開される。

そこには円爾に南禅寺を寄進した亀山法皇に対する叡山の反発や、円爾門下の自然居士一党の山門による追却沙汰など、他に知られない、禅が王権や洛中庶民の間に信仰を広げる実態と、その流布への危機感が如実に伝わる。それはまた永仁3年に寂仙上人遍融により制作された『七天狗絵』の直接の基盤となり、そこでは自然居士が踊り念仏する一遍と共に登場して日本の仏法を滅す魔界の走狗の役回りを演ずる(『渓嵐拾葉集』と『七天狗絵』詞も本叢刊『禅教交渉論』に収録される)。

ちなみに、『渓嵐拾葉集』「縁起」には、この寂仙上人が登場し、禅と律、真言以外を無用という鎌倉幕府の要人に対して天台の重要性を力説する記事が見える。つまり両書は互いに呼応して天台側の反禅キャンペーンの一環を担っていたのである。

禅に対しては、真言宗の側からも教学論争が頼瑜のような大学匠から挑まれていたが、注目されるのは、西大寺叡尊の真言律に発し三宝院流の正嫡に連なった文観弘真の法弟宝蓮が、西大寺流律僧覚乗の問いに応えて禅に対する真言の優越を「以心伝心」について論じた『瑜伽伝心鈔』である。管見に入る文観著作のうち禅に言及するものはひとつもないが、宝蓮は師説の継承者ながら盛んに禅に言及し批判するのは、夢窓派が席巻した南北朝期の宗教界を反映するものだろうか。

中世の禅をめぐって、仏教テクストが実に豊かに多元的で多彩な論義を繰り展げる様相を焦点化した『禅教交渉論』から眺めた『中世禅籍叢刊』の全体像は、後世の臨済・曹洞宗の祖師栄西・道元の聖典を頂点として、禅宗各派において体系化された宗典の世界とは全く異なった相貌を示している。それは、中世に到達点を迎えた顕密仏教の巨大な思想体系に、その内部から融合し、超克しようとする新たな認識論理を生みだす絶えざる解釈の運動であり、また顕密仏教側からも激しく批判され、審問されつつ位置づけを試みられる手強い対象であった。この二つの解釈のベクトルが宗教テクストのうえで交わり、拮抗する。禅は、そうした宗教のはたらきと営みの臨界を中世にもたらしたのである。

中世禅をめぐるフロンティアは、真福寺や称名寺のような寺院アーカイヴスにのみ存在するのではなかった。中世後期には日本の各地方に談義所と呼ばれた修学のための寺院が成立し、これらを遍歴する学僧たちの活動の所産が、今も至るところの地域に聖教として遺されている。

全国各地へと展開

その一例が、久野俊彦氏の調査によって掘り起こされた福島県会津地方の真言宗や修験寺院の宗教文献である。戦国時代に当地に密教伝授を行った醍醐寺光台院の亮淳や根来寺智積院の祐義に右筆として仕えた祐俊の書写した大量の真言聖教が只見町の瀧泉寺から出現したが、その中の『乾坤塵砂鈔』は、全てに禅の要語と論理を用いて密教の奥義を四重にわたり問答体で解説する。いわば禅によって真言を説く態の宗教テクストである。室町期には既に禅を前提として密教は言説化され布置されるに至る。

さらに久野氏が南会津町龍福寺から見いだされた一片の聖教末尾断簡は、弘長2年に光明峯寺(東福寺の東山に道家が高野山に擬して建立した密教寺院)で写した本奥書を有し、「無相三密」の境地を四種念誦に宛てて坐禅の調息法を説き、これを「真言禅ノ躰」と結ぶ、おそらく円爾の著作とみて誤たない中世写本である。中世禅の豊饒な所産の一端は、こうして全国各地へと流布展開していたのである。

会津におけるような発見は、今後、各地域の寺院資料、あるいは民間の宗教文献の調査が展開するに従って、さらに限りなく増えていくだろう。禅を通してうかがいみた、テクストを介した宗教文化遺産の探究は、ひとつの寺院経蔵から地域全体、ひいては全国的なネットワークの許で驚くべき展開を遂げたことを示している。未知のフロンティアは全国に及ぶのである。その探究を、仏教から汎宗教にわたり、人文学の諸分野と連携・協働して行う新たな学術領域が求められよう。「宗教文化遺産テクスト学」の構築を、いま、この機に進めなければならない。