ニュース画像
潮音寺で営んだ平和・慰霊法要
主な連載 過去の連載
エンディングへの備え
時代を生きる 宗教を語る
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

近世三昧聖の活動と行基伝承

方丈堂出版編集長 上別府茂氏

2019年2月1日付 中外日報(論)

かみべっぷ・しげる氏=1947年、鹿児島県生まれ。大谷大大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。専攻は日本宗教民俗学・日本葬墓史。前法藏館編集長・元帝塚山大非常勤講師。現在、方丈堂出版編集長。論文に「三昧聖と葬送―行基系三昧聖を中心として―」(『講座・日本の民俗宗教二 仏教民俗学』、弘文堂、1980年)など多数。
一 はじめに

紀州高野山は古代末から納骨の霊場として知られ、近世には「日本総菩提所」の名で宗派を超えた人びとの納骨と塔婆供養が行われてきた。奥之院の入り口から大師御廟までの約2キロの墓道の両側には、樹齢数百年の老杉とともに歴史上著名な諸大名などの20万基を超える巨大な五輪塔や供養塔が林立し、木漏れ日が霊場の雰囲気を醸し出す。この鬱蒼とした墓原の一角に、我が国の庶民仏教史上もっとも重要な人物のひとりである行基の供養塔が建立されていることを知っている人はそんなに多くないであろう。その碑銘によれば、江戸時代中期、延享5(1748)年に「三昧聖」という宗教者が行基の一千年忌供養のために石塔を建立していた。

二 三昧聖とは

ではこの三昧聖とはどういう宗教者であろうか。三昧聖とは火葬・土葬による遺骸の処理や墓地(俗称はサンマイ)の管理に従事した半僧半俗の宗教者(=聖)のことをいう。一般に「オンボウ」(煙坊・煙亡・隠坊・御坊など)、「墓守り」などともいわれた。文献上では、室町時代前期の『浄土三国仏祖伝集』(1416年)に「薩生法眼三昧義。号三昧衆。今世三昧聖リ是也。又ハ名御坊聖」と見えるのが早い。その職掌は安土桃山時代、1576(天正4)年7月26日付の宣教師ルイス=フロイスの書簡によれば、「日本に於いては異教徒の間に貧窮なる兵士および保護者なき人死する時は、フジリスと称する人たちのもとに遺骸運び焼かしむる習慣」のあったことを本国に報告している(『耶蘇会士日本通信』下)。全国的に三昧聖に類する職掌の俗聖は、空也僧・茶筅・鉢叩き・鉢屋・鉦打・念仏者・谷の者・念仏者(沖縄)・陣僧などがあげられる。遺骸を扱ったことからいずれも賎視された。

三 三昧聖の近世の活動

近世の近畿周辺(山城・大和・河内・摂津・和泉・近江・丹波など)の由緒ある墓地に三昧聖建立の行基供養塔などが多く見られることや、三昧聖の伝承に多く行基を祖として仰いでいることに注目し、なぜ彼らが行基との関係を保持していたかを明らかにしてみたい。

「大坂千日前法善寺の墓所に行基開創の碑あり」(近世の『葦乃若葉』)とあるように、行基開創を伝える墓地が多いことは歩いて見ればわかる。近世の三昧聖がその開創建碑を行い、例えば文久元(1861)年、大坂梅田墓所の基流という三昧聖は「聖武天皇勅許行基三昧耶場」と刻銘した石碑を墓所入り口に建てていた(『道頓堀非人関係文書』下)。また三昧聖所蔵の行基坐像(木造)や行基画像も多く、彼らは行基講も組んでいた。

三昧聖の行基伝承をもっとも端的に示す例は行基年忌供養の法会であり、その記念としての建碑である。年忌供養会は畿内各地の三昧聖が個別に行った分と、東大寺龍松院の要請により東大寺で実施した分とがある。延享4(1747)年3月から4月8日まで東大寺では「行基遺身舎利供養法事」として一千年忌が執行された。それゆえ、東大寺大勧進職であった龍松院は「和泉国新古惣三昧聖中」宛てに、報恩稔香拝礼として東大寺へ登山するように書簡を送っていた(「行基菩薩一千年忌法事廻牒之写」)。この書簡によれば五畿内各国の三昧聖に、日割りを以て参詣するようにと伝えているので、同趣旨の書簡は和泉国の三昧聖ばかりでなく畿内他国の三昧聖にも送付していた。

延享4年の東大寺行基一千年忌供養会に登山した各国の三昧聖は帰省後、自国の墓地でも行基供養会を行ったうえ、記念のため建碑していた。大坂の千日墓所三昧聖は延享4年4月24日に「開闢之行基菩薩千年忌為報恩」に常念仏および説法法事を実施し、行基一千年忌法事を営んだ(『道頓堀非人関係文書』下)。翌年の延享5年に各国三昧聖は各々の墓地で記念の建碑を行ったことが知られ、前述した高野山奥之院墓地に建碑された供養塔もそれにあたる。

その他、例えば、大阪市東住吉区の矢田部墓地の供養塔には「南無行基大菩薩」(正面)、「御年七十八而為大僧正此任始于墓、天平勝宝己丑正月皇帝受菩薩戒及皇太后賜大菩薩」(右側面)、「同二月二日八十二於菅原寺東南院入寂矣、時延享五年歳次戊辰二月二日奉修一千年御忌者也」(左側面)、「河州丹北郡矢田部邑、弥明寺三昧聖中」(裏面)(『中河内郡誌』)との刻銘がある。

その他、この類の石碑は奈良市の大安寺墓地、奈良県斑鳩町の極楽寺墓地、大和郡山市の長安寺墓地など各地に現存する。無銘の近世の五輪塔・宝篋印塔などをも行基供養塔と称している墓地もかなり多いことから、畿内各地の三昧聖による行基供養塔の建碑の多さが窺えよう。

また弘化4(1847)年3月2日から同8日まで畿内三昧聖は、東大寺で行われた行基一千百年忌にも同様に日限を以て登山していた(「行基一千百年忌法事廻文之写」)。もちろん畿内各地の三昧聖の建碑も行われ、奈良当麻寺北墓の自然石には「開山行基菩薩 天平二十一年二月二日入滅 弘化二年一千百回忌建之 雲分寺」と刻銘された。

四 行基伝承のモチーフ

では三昧聖をこのようにかりたてた行基伝承とは、具体的に何をさしていたのであろうか。その手掛かりとして多くの三昧聖関係史料のなかで、三昧聖由緒書といわれる『行基之巻』『志阿弥之巻』をはじめとし、『五畿内五三昧縁起』『行基菩薩草創記』『行基菩薩絵伝絵巻』その他があげられる。これらの史料は偽文書ではあるが、その行基伝承のモチーフは次のようなことであった。

①三昧聖の先祖は行基とともに畿内の墓地を開創し、火葬を行った志阿弥法師という渡来僧であった。②そして行基は志阿弥を子孫相続のために妻帯させ、その子孫が三昧聖となった。それゆえ妻帯した三昧聖は農業も行い、有髪の者もいた。③志阿弥やその徒弟は特殊な火葬術をもっていた。したがって行基開創墓地は必ず火葬をする設備があって、その寸法も穴輪4尺、深さ3尺2寸と決められていた。④聖職の権限は聖武天皇の「御綸旨」「御院宣」で定められ、葬送諸色の進退や墓地の除地や諸役免除等が認められていた。⑤また行基大仏造立勧進に志阿弥やその徒弟が参加していたので、以後後世の大仏再興勧進に助力していた――などと伝承していたという。

五 むすび

昨年は行基生誕1350年の記念イベントが各地で開催され、行基の活動および業績が見直されている。一般に知られている行基の活動は、奈良時代の国家仏教のもとでは鎮護国家の法会・祈祷などに専念させられた僧尼は民間では直接布教することを禁じられていたなかで、灌漑設備や交通施設の造営、架橋・造池などの社会事業、四十九院と呼ばれた寺院の建立などがある。近世の三昧聖の行基伝承を信じるならば、後世にもっとも大きい影響を与えたのは、庶民のために火葬を始めたことや墓をおこしたこととする功績(五来重説)である。史実としては厳しいが、無視することはできないのではなかろうか。