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行基墓、竹林寺の結界と輿山墓地

元興寺文化財研究所副所長 狭川真一氏

2019年2月20日付 中外日報(論)

さがわ・しんいち氏=1959年、奈良市生まれ。奈良大文学部文化財学科卒業。2009年に博士号取得(奈良大)。専門は日本考古学で、古代中世の葬送墓制史研究。太宰府市教育委員会を経て1999年から元興寺文化財研究所に勤務。著書に『中世墓の考古学』(高志書院、2011年)、編著書に『墓と葬送の中世』(高志書院、2007年)、『季刊考古学―中世の納骨信仰と霊場』(雄山閣、2016年)など。
行基墓発掘

文暦2(1235)年8月、律僧の寂滅らによって行基の廟(奈良県生駒市)が発掘され、八角形の石筒と行基の墓誌銘文を刻んだ銅筒が発見された。これ以前に行基廟の上に建てられていた石塔から舎利が出現し、近くの庵から出た煙が行基廟を覆うという奇瑞が相次いで起こる。さらにその庵に住まいした慶恩という僧に「我が廟を発掘せよ」という行基の託宣が下ったこともあり、僧侶俗人みんなが心を同じくして発掘に踏み切ったという(細川涼一『中世の律宗寺院と民衆』)。

行基墓の位置

嘉元3(1305)年成立の『竹林寺略録』(大日本仏教全書所収)には、行基の遺骨は往生院に納め、そこを竹林寺の奥之院としたと記録されている。この場所は現在の史跡指定地となっている竹林寺境内の行基墓より南へ約400メートルの位置にある。これについてこの記事を素直に理解する立場や、往生院を火葬場とみる説などがあり研究者間で決着を見ていない。

ではいずれが本物の行基墓であろうか。もちろん今再発掘すれば解決する可能性は高いが、それは現実的ではないので古代墳墓研究の視点で眺めてみよう。行基が活躍した奈良時代は、天皇や高位の官人、高僧のみが造墓を許されたが、平城京内や公道の近くに埋葬することは禁じられた(『喪葬令』)。そのため都周辺の丘陵部に墓が作られたのである。たとえば天皇や皇子らは平城京北東辺の丘陵部にまとまって営まれ、その他の官人や僧侶は盆地の東西北に横たわる丘陵部に場所を選定して埋葬されたようである。古事記編纂者の太安萬侶の墓が平城京の東山中の地にあることを知る人も多いだろう。この太安萬侶墓の立地を見ると、墓は丘陵の南向き斜面の中程に作られ、左右(東西)には墓のある主丘陵から舌状に南へ伸びるやや低めの丘陵があり、それに挟まれた谷部の南側は開けた土地となっている。まさに墓地を営む背後の丘陵を玄武、前面の開けた土地を朱雀、東西の丘陵をそれぞれ白虎と青龍に見立てた風水思想に適った土地を選んでいるのだ。

当時の墓地はこの周囲の丘陵部を含めた範囲で1人の墓域だったとみられ、その範囲内から他の蔵骨器などが見つかった例は無い。この視点で行基の墓を観察し直すと、現在史跡に指定されている地点の周辺は、竹林寺の造営に伴う改変はあるもののまさにこの条件に適った位置にある。仏教の高僧といえども、選地は風水思想にしたがっていたのは興味深い。これに対して往生院の地は丘陵の最上部に位置しており、また南側隣接地には大宝度の遣唐使だった美努岡万の墓地が確認されており、奈良時代の造墓論理には適合しない場所と考える。ここでは現在の史跡地周辺を本来の行基墓と考えておこう。

行基墓を結界する

現在、竹林寺の境内には結界石と称する高さ1・2メートル余りの方柱状の石碑が4点残っている。このうち3点にはそれぞれ「大界西南角標」「大界東南角標」「大界東北角標」とあり、残る一つは板碑型で「大界外相」「勧進沙門入西」などの銘文が見える。これらの当初の配置を復元すると、方柱状の石碑3点は失われた1点と共に竹林寺のある丘陵の四方の隅部分に、板碑型の1点は南正面に存在したことが判明している。しかも四隅の石碑の位置は行基墓を中心にして対角の位置になるよう配置されていたことも明らかになっている。

この結界石は入西という僧が勧進して造営したものだが、この入西は嘉元2(1304)年に近くの無量寺で五輪塔を建立しているので、この時代に活躍した人物であることが分かる。さらに結界石は翌年に成立したとされる『竹林寺略録』に掲載されているので、概ね嘉元初年頃に行基墓の結界は設定されたと推定されている(『生駒市石造遺物調査報告書』)。もし最重要の行基墓本体が往生院にあったなら、結界は往生院になされるべきだったのではなかろうか。この事実はやはり、現在の指定地が行基墓本来の位置であることを示していよう。

ではなぜ『竹林寺略録』は往生院を行基の墓と記載したのであろうか。その前に往生院とその周囲に広がる輿山墓地を眺めておきたい。

往生院と輿山墓地の成立

現在、輿山墓地の中央に位置する往生院は一宇の堂を有するのみだが、その堂内へは今も納骨が行われているようである。この堂の背面には高さ1・8メートル余りの花崗岩製五輪塔が安置されるが、塔の表面に梵字や銘文を記載しないタイプである。この形式の五輪塔は西大寺の叡尊墓を祖型としたもので、律宗の活動によって各地の墓地の中心に据えられ、塔の地下や周辺に納骨が行われた。その造営時期は14世紀前期頃が最も多く、往生院の五輪塔もこの時期の所産である。当初はこの堂の中央に据えられ、多くの死者を迎え入れていたのであろう。

その堂前には細長い石柱の上に五輪塔を彫り出した、長足五輪塔と呼ばれる石塔がある。この塔の特徴は噛合式といって火輪上部が風輪下部に差し込まれたような形をしたもので、高野山へ向かう参道に建てられた町石の一部に同じ形態のものがある。おそらく町石を造営した石工またはその末裔が建立したものだろう。石柱部分には阿弥陀三尊の梵字が刻まれ、堂前にあってお詣りの人々を迎えたものと思われる。石塔の年代は14世紀前期頃であり、堂内の五輪塔と共通する。しかもこの時期は行基墓に伴う結界石を配置した時期に一致しており、往生院を含めたこの付近一帯を行基所縁の地として一斉に整備したことが窺える。

しかも往生院周辺はこれ以後庶民の墓所として拡大し、輿山墓地として現在まで継続して利用されている。墓所は昭和50(1975)年頃に大きく改変されてしまったが、墓地内には小型の石龕仏(箱仏)や舟形五輪塔など戦国時代から近世初頭に登場する石造物を多数見ることができる。しかも近世以降は周辺の数カ村の共同墓地(惣墓)となって現在に至っている。

これに対して行基墓のある竹林寺境内には、西大寺中興叡尊の弟子にあたる忍性の分骨塔が建立され、その周囲には忍性を慕う弟子筋の人々が追葬されている。現在もその脇にある墓地は一般には開放されておらず、往生院の様相とは大きく異なるものである。

おそらく中世段階で行基への信仰が高まる中、多くの道俗が行基墓へ集まったと思われるが、その人々の墓所あるいは納骨所はここには設けず、南側の往生院を行基所縁の地であるとし、そこで庶民の供養を賄うように設定したのではなかろうか。結界までして神聖な場を維持し続けるうえで庶民墓の隔離は重要な施策だったのであろう。そのためにも往生院の地が早くから神聖な場所であることを説く必要があったとみられ、墓所内に残る正元元(1259)年の石造宝篋印塔の銘には「南無□□導師弥勒仏」とあってそこが弥勒下生の場であることを説き、「釈迦入滅一千八百六十七年」と仏滅紀年を記載してすでに末法の世であることをいち早く示す必要があったのではなかろうか。

同じような図式は高野山奥之院に見られ、弘法大師廟をまさに弥勒下生の地と見立て、その周囲に納経、納骨が行われ、そこを中心に庶民の納骨所へと発展したことと結びつく。おそらく行基墓の顕彰と整備を契機として、行基に帰依する人々の墓の造営と運営をこの地で引き受けるよう設計されたものだったと考えたい。その背後には行基墓の発掘を指揮した律僧の力が大きく働いていることは言うまでもないだろう。