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大本山總持寺石川素童禅師百回遠忌を迎えて

明治大名誉教授 圭室文雄氏

2019年3月6日付 中外日報(論)

たまむろ・ふみお氏=1935年、神奈川県生まれ。65年、明治大大学院文学研究科博士課程単位取得。同大講師、助教授を経て、教授。2006年、同大名誉教授。『江戸幕府の宗教統制』『日本仏教史 近世』『總持寺祖院古文書を読み解く』など著書多数。

石川素童禅師が尽力された總持寺鶴見移転について記してみたいと思う。

【總持寺の大火】

本来石川県輪島市門前にあった總持寺は1898(明治31)年4月13日午後9時の出火で、境内にあった70余棟の大伽藍並びに建築物の大半を失った。主なものを挙げると大法堂・仏殿・紫雲台・待鳳館・蟇沿斎・普蔵軒・放光堂・祥雲閣・大庫裏・香積台・大僧堂・接賓本寮・鐘楼・勅門並びに左右80尺(24メートル)に及ぶ五筋練塀など、悉く焼失した。

この時の總持寺住職は独住第二世畔上楳仙貫首(1825~1901)で、監院は石川素童師であった。

1899(同32)年11月5日、曹洞宗宗務局は大本山永平寺森田悟由貫首と總持寺畔上楳仙貫首の連名で、全国の曹洞宗寺院と檀信徒に対して「告諭」を出している。その内容は「大本山總持寺諸殿堂再建につき、末派寺院及び檀家信徒は熱誠を傾けて、勧奨翼賛をもって、この前古稀有の大工事を迅速円満に落成せしめんことを望む」としている。一方曹洞宗宗務局も「一宗協力この大工事を達成せしめるよう」と布達している。

いよいよ總持寺再建大工事に取りかかる条件が出そろい、全国の曹洞宗寺院・檀信徒の勧化金徴収の手続きが終了した。この時、曹洞宗再建のため10の規則を定めている。主なものを記してみると、總持寺諸殿堂再建法・再建祠堂法・再建事務本部職制・再建祠堂金取扱規定・再建経費予算などである。作成の中心になったのは石川素童監院であった。しかし、この時期は本山移転までは考えていなかったようである。

【当時の社会情勢】

ところが總持寺内部において人事異動があった。1901(同34)年3月、畔上楳仙禅師が退董、西有穆山禅師が貫首になり、新しい体制に代わった。

曹洞宗では02(同35)年4月18日、大本山永平寺承陽大師(道元禅師)六百五十回大遠忌が盛大におこなわれた。

さらに04(同37)年~05(同38)年には日露戦争が勃発している。国内外のかくの如き物入りの時期、總持寺再建寄付金を曹洞宗寺院・檀信徒から集めることは、きわめて困難であり、一時停滞せざるをえなかった。

【石川素童禅師の登場と本山移転】

總持寺では05(同38)年、西有穆山貫首が退隠し、神奈川県南足柄市最乗寺石川素童住職が總持寺独住第四世貫首に就任し、いよいよ總持寺の再興に本格的に尽力する事になった。先述の如く1898年の大火の時は監院をつとめており、その頃總持寺再建計画を立案していたからである。ところが、これまでの計画は輪島市門前に總持寺を再建する計画であった。

1899年11月、東京市深川区長慶寺武藤弥天住職や、1900(同33)年5月、長野県北部の曹洞宗寺院及び檀信徒から「本山再建はこれまでの輪島市門前ではなく、東京に移すべき」という請願書が次々に總持寺貫首に提出されてきた。この頃から總持寺の本山移転の機運が徐々にたかまってきた。

日露戦争の終結後、06(同39)年7月26日、東京市芝青松寺において總持寺移転についての諮詢会が開かれ、移転問題が議論された。当日は永平寺森田悟由貫首・總持寺石川素童貫首をはじめ、両本山の正副監院・宗議会議員などが集合し、検討を加えた。その結果、總持寺移転の件は賛成を得て、曹洞宗内の協力を取り付けた。

その後、石川素童禅師はこの年8月6日に總持寺の本山移転について加賀国・能登国・越中国(石川県・富山県)の曹洞宗寺院に説明するため、輪島市門前の總持寺へ向かった。穴水港から石川素童禅師一行が總持寺に向かうおり、禅師一行の人力車の行列に村の青年が移転反対の声を上げ、石川素童禅師の車と間違えて、一台の人力車を襲撃し、転覆させ、崖から転落させ、川底に落とすという事件が発生した。間違えられたのは石川県七尾市東嶺寺岡田泰明住職であった。地元ではこのように總持寺移転に対する過激な反対運動が起こっていた。

とりわけ總持寺が存在した門前村は、総て總持寺に関係ある商人や職人たちが住んでおり、多くの人は總持寺から収入を得ていた。移転されれば、生活が成り立たないのでかなり強い抵抗があった。反対運動の主な動きを挙げると、同年8月21日には穴水において信徒大会が開かれ、「能本山(總持寺)非移転同盟会」を組織し、さらに反対運動の拡大を図り、11月13日には金沢市公会堂において石川県信徒大会を開き、本山移転反対を決議し、内務大臣・石川県知事に陳情書を提出した。一方、總持寺は12月5日、本山移転願書を石川県庁に提出した。

【石川県知事の斡旋】

1907(同40)年1月29日、村上義雄石川県知事の斡旋により無事移転問題は解決した。地元が要望した条件は①門前に置く寺院は大本山總持寺別院とする事、②本山から12万3千円を支出し、これに能登地方から募集する2万7千円の寄付金を加えて、別院の建築費にあてる事、③本山は能登の檀信徒に対して本山の建築費を募集しない事、④別院と末派寺院を同列に扱わず、両本山以外の特殊な地位におく事、⑤別院の住職は本山(總持寺)貫首が兼務し、貫首退隠後は別院を隠棲の地とする事――など、これらの条件を本山側が認め、門前には従来のように七堂伽藍を建立する事になった。

10(同43)年には大祖堂・放光堂が落成し、12(大正元)年には客殿が落成し、その後山門・僧堂・接賓・庫院・紫雲台などが完備していった。

【大本山總持寺横浜市鶴見へ】

本山の鶴見移転への手続きが終わったのは11(明治44)年の7月2日のことであった。大火から14年目のことである。この年11月5日には移転式大法要が盛大に行われた。この時、鶴見に完成したのは放光堂・伝灯院・跳龍堂のみであった。境内は03(同36)年、成願寺が提供した約1万4800坪を含めて、約6万3300坪であった。現在は約15万坪である。

石川素童禅師の長年にわたる、別院の設置・鶴見移転の作業はかなりの心労が伴ったことであろう。しかし、大本山總持寺の現在の隆盛を見るにつけ、百年先を見越しての炯眼といえると思う。總持寺にとっては中興の祖ともいえる人物と評価されるであろう。20(大正9)年11月16日に遷化された。「勅特賜大円玄致禅師牧牛素童大和尚」と号した。

(参考文献 『總持寺誌』『新修門前町史』)