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トップ> 涙骨賞受賞者一覧リスト> 第13回涙骨賞「奨励賞」受賞者寄稿 川口 勇氏
中外日報社主催第13回涙骨賞「奨励賞」受賞者寄稿

第13回涙骨賞論文部門の「奨励賞」受賞作を、筆者自身によってエッセーとしてまとめたものです。

2017年7月19日付 中外日報

松瀬青々の俳句と仏教

川口 勇氏

 かわぐち・いさむ氏=1941年、京都府福知山市生まれ。関西大大学院修士課程修了。74年、法華宗正立寺住職就任。75年、月刊『サットバ』創刊。2013年、第八回古志俳論賞受賞(「芭蕉の方法-その推敲の足跡-」)、15年、正立寺住職退任。主な著書に『仏教の門』(岩田書院)、『仏教の本流を往く』(東方出版)。

このたびの涙骨賞で奨励賞を受賞した拙論でとりあげた人物のひとりに松瀬青々がある。青々の生きた時代は子規が俳句革新に乗りだし、多くの俳人たちが「ホトトギス」を中心にうごきはじめたときである。青々は大阪に拠点をおいて活動したが、その弟子のひとりである堀古蝶著『俳人松瀬青々』に「昭和十二年に没したのちは、急速に忘れ去られた感がある」という言葉が代弁しているように、最近ではその名を口にする人はそう多くはない。

ところが平成18年8月19日、①『松瀬青々全句集 下巻』が刊行され、つづいて②『松瀬青々全句集 上巻』が23年10月10日に、③『松瀬青々全句集 別巻 青々歳時記』が26年4月4日に、それぞれ茨木和生氏を中心とした俳人たちの並々ならぬ熱意と奮闘によって上梓された。その③の「あとがき」には、全集が刊行されるまでの詳細な記事があり、そこにも注目しないではおられない内容が盛られているのだが、その最後に次のような文面をみたとき、おどろきの声をあげざるをえなかった。

「なによりもこの事業遂行のために一千万円の寄贈を戴いた大同薬品工業株式会社、ダイドードリンコ株式会社などを創業された起業家、高松富雄氏のご霊前にこの一本をお供えしてお礼申し上げたい」

一人の俳人の俳句全集に莫大な寄贈がなされた経緯については、部外者の小生などにはわかろうはずはない。しかしこの行為はただごとではない。いかに俳句を愛し、また青々本人と何らかの縁があったにせよ(小生の憶測だが)、これだけ多額の寄贈行為は稀有だろう。

俳句界においては、このようなことは日常的ではないにしろ、あるていどおこなわれているのかもしれないが、門外漢の小生にはそのあたりのことについては何もわからない。しかしこの「あとがき」をみたとき、高松富雄氏の俳句にむけられたあたたかな心根には何よりも関心をよせたが、同時に高松氏の心をひきつけた俳人青々その人に思いをはせた。それほどまでに人の心を寄せつけるつよいものを青々はもっていたわけである。度肝を抜かれる思いをもちながら、これは俳句というもののもついいしれない魅力であり強さだと感じた。

没後80年を経過し、その名もほとんど忘れ去られた俳人が、今もって多くの人々によって心よせられ、全句集まで刊行されて親炙される青々とはいったいどのような俳人なのか。にわかに心惹かれるものを感じずにはおられなくなった。

ともかく5万句といわれる青々の句のうち、心惹かれた句を小生のパソコンに入力していった。700句ほどを入力してゆくうちに気のついたことがある。仏教的な、あるいは宗教的な句が約300句あったのだ。これほど多く仏教的俳句を作った俳人はまれではないか。ちなみに俳人のなかで宗教的、あるいは仏教的な句がどれだけ作られているか調べてみると、小生の調べた範囲であるが、森澄雄91句、飯田蛇笏80句、松尾芭蕉77句、平畑静塔68句、飴山實49句、山口誓子49句、加藤楸邨47句、正岡子規46句、阿波野青畝43句、中村草田男42句、川端茅舎42句、小林一茶41句、高浜虚子40句、清水基吉と高野素十が36句とつづく。

青々の仏教的な句の特徴は、自身が熱心な仏教信者であったことと深くかかわる。生涯69年間にわたって参詣した寺院は、約150カ寺。宗派をとわず若いときから多くの寺院に参詣し、それぞれの寺で作句した。

「華厳経」「法華経」「勝鬘経」「維摩経」「盂蘭盆経」「般若心経」「楞伽経」など多くの経典に通暁し、明恵や元政や鑑真などにたいする信仰にはとくに熱いものをもっていたことが、句のなかからうかがわれる。法華経読誦が日常おこなわれていたことは「法華経や花の盛りの七十二」「夏に在りて擣篩和合(とうしわごう)の薬かな」「秋風きゝ月を見諸法実相義」などの句に明瞭である。また「夢窓録」「趙洲録」「臨済録」など多くの禅語録に目を通した。

熱心な仏教信者であった彼は「生」のなかに「死」を意識しているが、たとえば「是生滅法をきゝて門前春惜む」などという句は、仏教の説く真実の法が何であるかという本質にせまっている。あたかも仏教の覚りの世界から現世をみつめかえしているように。

日本の文学、ことに歌の歴史は『万葉集』以来仏教と深くかかわってきたが、その仏教が本覚思想とかかわることもまた強調されねばなるまい。本覚思想は『大乗起信論』に説かれたもので、「迷人は方によるが故に迷ふ。もし方を離れば迷ひあることなし」と説かれ、覚・不覚の二辺をこえた不二・空の世界に真のさとり(本覚)があるというもの。この思想はとくに天台宗を中心にして発展していったので「天台本覚思想」とよばれる。

それは鎌倉時代の新仏教の土台をなすにいたる仏教思想だが、文学の世界にも大きな影響をおよぼした。田村芳朗博士の『天台本覚論』に「日本文化ないし思潮と天台本覚思想との間に、相互影響がある」とあるように、歌の歴史においてはその影響を藤原俊成にみることができ、『古来風体抄』には和歌の道と天台止観の関係を論じて、煩悩即菩提、空仮中の三諦から、仏教思想が和歌の道につながるものとされた。

そのながれは鎌倉時代の藤原定家をへて、室町時代の正徹、心敬、そして宗祇へとつづく。「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、〈中略〉其の貫道する物は一なり」と『笈の小文』に記した松尾芭蕉がその伝統をひきつぐ。芭蕉さいごにゆきついた蕉風「かるみ」は天台本覚思想の影響下にあるとみてよかろう。

こうした歌の歴史は明治時代の俳人たちにも影響を与え、高浜虚子は「諸法実相を裏返せば一念三千となる」といい、「常寂光浄土に落葉敷きつめて」と詠った。青々はこの日本の歌の伝統をうけつぎ、「今はたゞ生死句にあり秋の風」「生き死やいづくにあるも旅の雁」「生死涅槃雲行き水の流るるか」などと詠った。天台本覚思想の文献に「大海の波は昨日の波も今日の波も全く体一なるがごとく、三世の念はただ一念なり」(『枕雙紙〈まくらのそうし〉』)とあり、青々の句に通じるものが指摘されるだろう。

青々の場合、人目を引くのは、仏教信仰を根にもちながら、女性へのエロチックな視点を句のなかに詠いあげたところにある。その具体的な内容については「奨励賞」受賞作のなかで述べたのでここでは控えるが、すくなくとも彼の覚りの心根には煩悩即菩提・生死即涅槃という世界観が存していたことはたしかである。

それは天台本覚思想が「生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳なり」(『生死覚用鈔』)と説いているところにつうじゆく。そうした仏教的世界観に根ざした信仰をもっていたからこそ、彼は矢継ぎ早に次々と仏教的な句と同時に女性句を作りつづけることができた。

仏教と俳句を一つの土俵において作句しつづけた俳人は、小生の知るかぎりにおいて青々においてもっとも特徴的である。仏教と俳句という視点から、青々の句は再評価されるべきだろう。