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トップ> 涙骨賞受賞者一覧リスト> 第14回「涙骨賞」受賞論文 廣田拓氏
中外日報社主催第14回涙骨賞「奨励賞」受賞者寄稿

第14回涙骨賞の論文部門で奨励賞を受賞した作品を掲載。筆者自身によるダイジェストです。

2018年5月23日付 中外日報

偶然における信仰から無常における信仰へ
―石原吉郎の思想を導きの糸として―

廣田拓氏

ひろた・たく氏=1983年生まれ。2006年3月、東京外国語大外国語学部ロシア・東欧課程チェコ語専攻卒業、14年、横浜市立大大学院都市社会文化研究科(都市社会文化専攻)博士後期課程単位修得満期退学。同年4月~16年3月、同研究科共同研究員。所属団体は日本社会学理論学会、社会文化学会。

このたびの論文のテーマは、日本文化における「無常」と信仰の関係を、西洋思想における「偶然」と信仰の関係を補助線に探究する、というものである。無常と偶然の比較にかんしては、すでに野内良三による優れた業績が存在するが、このたびの論文は、それを信仰との関係から考察したという点に特徴がある。

ここではまず、西洋思想における偶然と信仰の関係について検討する。通常、ある事象が「偶然」として認識されるのは、この事象に人間存在が介在するときである。西洋思想においては、そうした想定外の出来事への介在に意味(必然性)をもたらす、その出来事に関与した人間の意志とは別の超越的な意志について、多くの議論がなされてきた。同時にそうした「超越(無限)」領域の設定は、人間存在の「有限性」を認め、超越者に対する信仰を促すことに結びつく。

一方で、科学的合理性が重視されるようになった近代以降、偶然を意味づける信仰への懐疑などから、いわゆるニヒリズムが台頭するようになる。こうした状況において、上述の超越的要素を人間自身がひきうけることによって、偶然をのりこえる発想が、ニーチェや実存主義の登場によって顕著となる。しかしそれでも、死の不安に象徴される人間の有限性を、自己自身で克服することはできない以上、信仰の契機は依然として、西洋思想の課題として残されることになる。

その後、構造主義の興隆にみられるように、人間という主体の解体を告げる思考が展開されるようになる。最近では、フランスの哲学者カンタン・メイヤスーのように、近代以前、超越の領域として不問に付されてきた、宇宙や生命の起源などの偶然の事象が、数学を用いた推論により言明可能となる点を評価する立場も現れている。メイヤスーからすれば、この世界に必然的(有意味)な出来事など存在せず、世界は「絶対的な偶然性」以外の何ものでもないのである。

筆者は、こうしたメイヤスー的理解を、諸行無常の世界観に結びつけて考えている。というのも絶対的な偶然性は、あらゆるものの存在理由の「不在」という、生の無意味性を表現したものだからである。ただしこの場合、無常に面した人間のありかたまでは考慮されていない。むしろこの点を、人間存在の有限性に潜む「悲哀」として、この悲哀に対する身の処し方を歴史的に培ってきたのが、日本文化の特徴であるといえる。

論文では、人々の無常とのかかわりを考えるにあたり、中世日本における鴨長明の無常観や悪人正機説などに言及した。そこから理解されるのは、無常との向きあいかたには二つの方向性がみられることである。すなわち、一つは、無常に面して無力な自己を自覚し、安らぎとしての「自然」と相即する方向性であり、もう一つは、無常の根本に自己の罪業を見定め、一切のはからいを放棄して、「信仰」に身を委ねる方向性である。

この場合、無常に面した人間の救済には、「被害者」としての人間救済の意味と、「加害者」としての人間救済の意味が含まれている。だがいずれも共通するのは、それが「無私」の生き方につうじることである。

受賞論文では、無常のこの二面性を考えるにあたって、戦後シベリア抑留を体験した詩人、石原吉郎に焦点をあてている。クリスチャンでもある石原は、シベリアの強制収容所において、信仰による救済への絶望に直面するなかで、後述する「断念」という観点から信仰がなりたつ可能性を示唆している。

その石原によれば、シベリアの強制収容所生活においては、抑留者のあいだに、収容所の「現実が決定的に共有されている」ため、言葉で話し、考える意味は消失するという。さらに、個々の人間は生存をかけて、互いが互いの「生命に対する直接の脅威」として現れる一方で、他人の苦痛に対しては徹底的に「無関心」になるという。

石原によれば、この無関心は「ある種の奇妙な安堵」をもたらすとともに、「存在の放棄の始まり」を意味する。換言すれば無関心とは、他者の脅威にさらされた、被害者としての自己を救済するための、無私の状態をさしている。なぜならこの場合の無関心は、存在の放棄という、他者だけでなく自己自身への関心の欠落をさしているからである。そのように「自己への関心がついに欠落する時、そのとき唐突に、自然はその人にかがやく。あたかも、無人の生の残照のように」。

一方で石原は、収容所生活でみられた姓名の伝達という現象(=たまたま出会った日本人抑留者に自分の名前を告げて、ここで生きていたあかしの伝達を願うこと)のなかに、被害者の立場の「断念」と信仰の要素を認める。石原の理解では、被害者の立場の断念によって人が獲得するのは、被害者からなる集団を否定する「単独者」の位置であり、この単独者の位置は、信仰を必要とする加害者の立場を含意する。

収容所生活において集団を否定することには危険が伴う。というのもそれは、限られた物資のなかで生存するために必要な「連帯」からの離脱を意味するからである。このことが示唆するのは、姓名の伝達という行為が、自身の生の断念とひきかえに成立するということである。しかし、それでも人が単独者の位置を選ぶ背景には、収容所における無数の無名の死を待つよりも、固有の死を完結することへの希求(祈り)があると考えられる。

だが、自己の死の完結のためには、他者による(死の)「確認」作業が必要となる。この死の非完結性は、「ひとがひとりで死ぬことができない」(西谷修)という意味での、人間の有限性を示しているが、この有限性は同時に、他者の死の代替不可能性を露呈する。このことは、石原のような生存者のかかえる、他人ではなく自分が生き残ったことへの罪障意識からも理解される。

そしてこの生き残ったことへのゆるしを死者に対して請うとき、そこに信仰を必要とするもう一人の単独者が成立することになる。それゆえ人間存在の有限性は、個々の人間の個別性をさすのではなく、単独者としての死(を悟る)者の祈りと、単独者としての生者の信仰を支える、単独者間の「共同性」の意味をもつ。

加えてこの有限性が「無常」をさすとすれば、無常における信仰とは、偶然を意味づける超越者に対するものというよりは、具体的な他者とのあいだに生起する内在的なものとして理解される。

論文では最後に、最近の社会問題である「孤独死」の問題に言及し、それが上述の共同性の不在を明るみにだしていることを指摘している。すなわちそれは、確認されない死ということであり、この点では強制収容所における無名の死と孤独死に大差はない。

石原の思想をつうじていえることは、共同性から生起する信仰の、現代における意味を考えるうえでも、この問題を看過してはならないということである。