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トップ> 涙骨賞受賞者一覧リスト> 第14回「涙骨賞」受賞論文 真宗大谷派高明寺住職 三木悟氏
中外日報社主催第14回涙骨賞「奨励賞」受賞者寄稿

第14回涙骨賞の論文部門で奨励賞を受賞した作品を掲載。筆者自身によるダイジェストです。

2018年5月25日付 中外日報

「現世往生」という迷い

真宗大谷派高明寺住職 三木悟氏

みき・さとる氏=1955年、東京生まれ。東京都立新宿高卒。89年、真宗大谷派東京専修学院卒。95年、真宗大谷派高明寺(横浜市旭区)住職となる。2012年、現代仏教塾を開設。代表となる。所属学会は比較思想学会。主な著書・論文に、『現代仏教塾Ⅰ』(共著・幻冬舎MC)、「〈帰命とバクティー〉―〈無量寿経とバガヴァッド・ギーター〉における信仰の核心」(『比較思想研究』)がある。
はじめに

今、浄土真宗が揺れている。近年、往生は「来世」か「現世」かをめぐって、真宗教団の中で論争が起こっている。本論は、大谷派の僧侶の一人として、親鸞聖人の信心が「現世往生」ではあり得ないことを論ずるものである。

一、唯心の浄土

「現世往生」説は、早く趙宋時代の中国天台宗や、禅浄双修の諸家において主張されていたものであり、わが国においても平安末期から登場する天台本覚思想や、覚鑁の真言浄土思想において説かれたものである。現代の「現世往生」論者の中には、親鸞聖人が旧来の浄土教を解体し、それまでになかった革新的な浄土思想を展開したのが「現世往生」説であるかのように主張する者があるが、それは全くの誤りである。

中国天台の十四祖、北宋の四明知礼は、指方立相(西方浄土)の来世往生を説く善導の浄土教が山内に影響を及ぼすのを仏教の堕落と考え、これに対抗する唯心の浄土説を主張した。法眼禅の人、智覚禅師永明延寿は、仏教唯心論の集大成である『宗鏡録(すぎょうろく)』を著したが、天台において『天台観経疏』を講じ、知礼らに「本性弥陀、唯心浄土」の思想を伝えた。

禅家においても天台においても、浄土は心の外に実在する世界ではなく、心の内に見いだすべき世界であった。「現世往生」説は、この「唯心浄土」の立場から称えられた思想なのである。

二、「現世往生」説の検証

大無量寿経を原点とする七高僧の伝統に「現世往生」の思想はない。「現世往生」を主張する人々が必ずとりあげるのが、『大無量寿経』(無量寿経・魏訳)の本願成就文に出る「即得往生」の語であるが、この「即」は時間的な即をいうのではなく、意味上の「即」、即ち信心が確立すれば必ず往生がかなうという「必得」の意味である。

「『必得往生』と言うは、不退の位に至ることを獲ることを彰(あらわ)すなり。『経』(大経)には「即得」と言えり、『釈』(易行品)には「必定」と云えり。「即」の言は、願力を聞くに由って、報土の真因決定する時尅(じこく)の極促を光闡せるなり」(『教行信証』行文類)

この文を読めば、親鸞聖人が「即得」を、「必得」「必定」の意味と理解されていたのは明らかである。「即得」とは、報土の真因が決定する時なのであり、報土の果が得られた時なのではない。

またこの「即得往生」の語を、聖人は『一念多念文意』の中で「正定聚のくらいにつきさだまること」と理解しておられる。いわゆる「現生正定聚」の文であるが、肝要なのは、この「正定聚」の言葉の脇に「往生すべき身と定まるなり」(原文は「ワウチヤウスヘキミトサタマルナリ」真筆本)と、わざわざ左訓をほどこしていることである。

これらの証文に照らせば、聖人が「即得往生」を「現世往生」と解していないことは明白であり、論争の余地はない。既に本願寺派の「安心論題」では指摘されている事実であるにもかかわらず、大谷派ではなぜか、これらの事実が顧みられてこなかったのである。

三、法然・親鸞の浄土真宗

「即得往生」の他にもいくつかの文が、親鸞聖人が「現世往生」を説く論拠とされるが、すべて誤読にもとづく(要約のため、例文を省略)。対して、親鸞聖人が明らかに「来世往生」を説く文は枚挙にいとまがない(要約のため、一例のみをあげる)。

「念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す」

この「臨終」は心の臨終ではない。身の臨終である。念仏衆生は、現生には正定聚の身となり、その身の命が終われば浄土に往生して、大般涅槃を超証するのである。「現世往生」論者は、「来世往生」をとることは親鸞以前(の迷信的浄土教)にもどることになるというが、そのような主張こそ、浄土教が天台から独立した歴史的意義を誤るものである。

その意義とは、「さとり」から「すくい」への方向転換である。法然上人による選択本願の広開、そして親鸞聖人の吉水入門、それは「さとり」を掲げて「来世往生」を軽蔑し、批判する天台正統派や顕密諸教の人々、即ち南都北嶺のゆゆしき学生たちの思想に対する抵抗であり、反批判であった。

法然・親鸞の浄土真宗は、定散二善の諸行往生からの転換でもあるが、それ以上に唯心浄土説からの転換であり、唯心浄土に基づく聖道門からの、現世往生説からの転換だったのである。来世往生は、聖道門の人々からすればそれ自体が迷いである。しかし浄土門の心、法然、親鸞の心にしたがえば、現世往生の思想こそが、我が身の愚かさ、愚痴無知のわれらが身の事実を知らぬ迷いなのである。

四、「相伝義書」の本覚思想

相伝の教学は、東派における高倉教学の興隆によって衰退の道をたどったが、それ以前は、東西両本願寺において代々の法主に相承された教学であった。それは中古天台でさえかくまではと思われるほどのズブズブの本覚思想であり、江戸時代の真宗において、現代に通じる本覚思想的「現世往生」説が説かれていたことを示している。

五、近代思想としての「現世往生」説

現在、真宗教団の中で主張されている「現世往生」説は、おおよそ「唯心浄土」説であり、禅や空の思想に共鳴する「聖道門」的傾向と本覚思想、それに仏教の近代的解釈がない混ぜになっている。

近代的解釈の中には、仏教を現代に活かそうとする誠実な努力もあり、我々はそこから真剣に学ぶ必要がある。と同時に、近代という時代そのものが、今や批判的に検証されなければならないのである。

日本近代仏教学草創の頃に、多くの学者たちが「輪廻」のようなバラモン教の残滓を釈尊が説いたはずがないと決めつけた心情と、真宗における「現世往生」論者たちが、親鸞聖人が来世往生のような「中世的迷信」を信じたはずがないと思い込んでいる心情とは、軌を一にしている。その思い込みこそが問い直されるべきなのである。

「しかるに、末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し」という親鸞聖人のお嘆きは、今日隆盛を誇る真宗の「唯心浄土」的了解に対して、より深く向けられているのではないか。

結語

「現世往生」の何が問題なのか? それは素直に来世往生を信じる人々を否定し、迷わせてしまう。現代の不信に合わせて、教えの方を曲げてしまうのである。現代は長生きになった。だから人びとが「いかに生きるか」に関心を寄せることは間違っていないし、従来の真宗学がこの点で十分ではなかったことも事実である。

だからといって、人が死なない身になったわけではない。死の問題、死後の問題は、依然として人間の強い関心事であり続けている。「生死いづべき道」に正面からとりくみ、そこに来世往生という確信を見いだした先人たちの真摯な営為を、無にしていいはずはないのである。浄土教の誕生以来、七高僧によって、また親鸞聖人によって開顕された来世往生の教えを正しく頂戴しつつ、「現生正定聚」の意味を深く掘り下げること。そこに、現在の浄土真宗が直面する、困難な課題を切り拓く道があるにちがいない。