龍谷大犯罪学研究センター長 石塚伸一さん(65)

法学者として受刑者の矯正・保護や宗教教誨、死刑、薬物依存などの問題を長年研究し、龍谷大が設置する犯罪学研究センター長として、犯罪予防と対人支援を軸とした犯罪を巡る多様な研究活動を統括する。
死刑の再審請求にも関わっているが、罪を犯した人々との出会いを通して近年、「善意」=「知らないこと」、「悪意」=「知っていること」という法学上の考え方を手掛かりに、浄土真宗が説く「悪人正機」の教説の意味がふに落ちるようになったという。
池田圭
「善意」=「知らないこと」、「悪意」=「知っていること」とはどういう意味なのでしょうか。
石塚 僕はドイツで勉強したのですが、ドイツでは「知る」には「善い知る」と「悪い知る」があると考える。日本語では「善い知る」の人を「善意者」、「悪い知る」の人を「悪意者」と訳すのですが、それが法律用語としてずっとふに落ちなかった。
例えば「善意の第三者」という言葉がある。盗まれた時計を買った場合、「盗まれた時計であることを知らない善意の第三者なら時計は取得できる。しかし、知っている悪意の場合には所有権は移動しない」みたいな話を民法ではするんですが、僕は「善意の第三者ってばかなやつ。もう少しきちんと調べてから買えよ」と昔は思っていた。
しかし「これは誰のものか」と考えて買った方が悪意になる。法律上の善悪は倫理的・道徳的な価値判断じゃないんです。
そうしたことを浄土真宗の大学である龍谷大に在籍しながら、親鸞さんの「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の悪人正機説と合わせて考える中で、10年くらい前から「善意は知らない」「悪意は知っている」という、ただそれだけの意味として捉えるようになりました。「ただありのままに知っている状態と、知らない状態がある」と考えると納得がいく。
二元論的な善悪の話ではないと。
石塚 人間は皆、人に迷惑をかけて生きている。生きていることそれ自体が人にとって迷惑。自分は罪深い者。
だとすると、善人は「善いことや徳を積み重ねているような人」「悪いことなんてしていない真面目に生きている」という人。しかし、自分がみんなに迷惑をかけていることに気付いてはいない。
他方、悪意の人は自分がみんなに迷惑をかけていることを知っている。であるなら、知らずに徳を積んできた人が救われるなら、それに気付いた人は当然でしょうと。
僕が宗教教誨と…
つづきは2020年5月27日号をご覧ください