核廃絶を訴え続ける日本被団協代表委員 田中煕巳さん(88)

原爆投下からもうすぐ75年――。あの日の長崎のことは今も決して忘れることはできない。被爆者として核兵器廃絶を訴え続けてきたが、自身も含め日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のメンバーの高齢化は進む。
「生きているうちに何としても核兵器のない世界を実現したい」との願いから始めた署名活動「ヒロシマ・ナガサキの被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名(ヒバクシャ国際署名)」も今年が最終年度。「最後の一押し」と広く協力を求めている。
佐藤慎太郎
日本被団協の活動の課題は。
田中 被団協の活動も高齢化が進み、今は被爆2世や家族に支えてもらおうと呼び掛けています。
また、私の目の黒いうちに核廃絶の道筋だけでもと、2016年から始めた国際的な核廃絶のためのアピール行動「ヒバクシャ国際署名」は今年、国連総会に提出の予定でしたが現在約1185万筆。政府や政策を変えるにはまだまだ全然足りていません。新型コロナウイルスの影響で直接対面しての署名呼び掛けも難しくなりましたが、電子署名やオンラインでの証言会を開くなど工夫をしています。
75年前の原爆投下の日のことを教えてください。
田中 私はいわゆる旧満州の生まれですが、5歳の時に父が急死して両親の故郷である長崎に。原爆投下の時は中学1年生でした。当時の中学生はほとんど一人前の扱いでしたよ。6月に沖縄戦が終了して米軍の九州上陸が差し迫る状況下でして、たこつぼに隠れて手りゅう弾を投げる練習もさせられていました。
広島に新型爆弾が落とされたといううわさはありました。その日は朝早くから空襲警報が鳴り、午前9時頃警戒警報に変わりました。それじゃあ学校に行く準備をしようとしていたところに、飛行機の爆音が聞こえてきたのを覚えています。「B29かな?」と思って自分の部屋のあった2階の窓際から空を見上げても雲があって確認できなかったのですが、その瞬間にものすごい音と光――。
この世では体験できないのではないかと思うほど一面が真っ白になりました。とにかく階下に駆け下りると周りの色が真っ赤に変わったように思えて、訓練通りに目と耳をふさいで伏せましたが、気を失ってしまいました。妹2人を抱えたまま自分を捜す母の声に気付いた時は、爆風で飛んできたガラス戸の下敷きになっていました。…
つづきは2020年7月22日号をご覧ください