感染症の閉塞感 新たな生き方のビジョンは
新型コロナ感染症の流行が続くのは避けられない。あと数カ月は感染の不安に脅かされ、不自由な生活を続けなくてはならない。生活が成り立たなくなるのを恐れる人も増えている。何とか生活を守ることができても、先行きの危うさに怯えざるを得ない。多くの人にとって、このようにじわじわと不自由や不安に苦しむ経験はあまりないのではないか。戦後、これほどの長期にわたる閉塞感に苦しむことはなかっただろう。
まずは、人間の統御することができない自然の働きに脅威を感じているということがある。人間の無力を知るということだが、そうはいっても何かができるはずだと思いたい。実際、できることは多々ある。感染症を防ぐ様々な対策を講じ、感染症のため生じている困難を緩和したり克服したりするために助け合うということもできることはあるだろう。
このような時こそ希望を持つのは大事だ。感染症によって露わになったこと、とりわけ私たちの社会が持っていた弱点を自覚し、より安全で相互に支え合える関係を展望するということだ。実際、そのような方向で希望を見出そうという試みも広がっている。
デジタル化に希望を見出す人たちもいる。リモートワークでも十分やっていけると自信を持った人たちは少なくないだろう。データやICT技術やAIを駆使して医療や介護などの仕事を効率化し、感染の危険を避けることに今後の社会の進むべき方向性を見出す報道も増えてきている。他方、感染症の大流行による困難をもたらしたのは大都市集住であり、環境破壊によってこれまで遠かったウイルスを目覚めさせてしまった、と考える人もいる。自然との共生を取り戻すべきではないかという思いだ。両者を合わせデジタル・グリーン変革を打ち出す人もいる。
このようなより良い人間社会のビジョンはかつては宗教が担ったものだった。だが、現代では不用意に持ち出せば、妄想のように現れてしまうことが多い。現代社会ではビジョンといっても、生きる場に応じて様々で、宗教以外の多様な担い手がいる。では、宗教に何ができるか。
地域社会で新たな共生の在り方を切り開く人、独特の芸術表現を見出す人、長期的な展望を持ってこつこつ日々を生き抜く人、こうした人々と地域に根を張ってきた宗教団体との接点は少なくない。現代の宗教はこうした人々をつなぎ、人類が紡ぎ宗教が伝えできた叡智を深めることで、新たな希望とビジョンの提示に貢献できるだろう。