対話の前提 キリスト教的伝統との差異
前世紀中頃に国際的規模で始まった「仏教とキリスト教の対話」は日本でも続いているが、基本的な点で相互理解にはまだ不十分なところがある。
その一つに「キリスト教は共同体だが仏教は個人的である」という違いがある。むろんキリスト教にも神秘主義のように個人性の強い部分があり、仏教にも日蓮宗のように社会性の強い宗派があるから、この違いは程度の差にすぎないが、比較の問題としてはやはり違いがある。これに対し仏教にもサンガがあるとよく指摘されるが、ここでいう違いとはそういうことではない。
そもそもキリスト教の母体であるユダヤ教の聖典旧約聖書によれば、ユダヤ人の先祖ヘブル人はエジプトで奴隷状態にあった。神の委託を受けたモーセに率いられてエジプトから脱出し(前13世紀とされる)、パレスチナに建国するのだが、その前にシナイ半島で神と契約を結ぶ。それは、神ヤハウェは民イスラエルの神となり、民イスラエルは神ヤハウェの民となるという関係の合意であり、この契約に基づいて民は神から与えられた、いわゆるモーセの十戒を守る義務を負うことになる。
ユダヤ教は、契約と律法に基づく「神の民」形成に神のはたらきを見たわけである。この「歴史」はキリスト教にも受け継がれる。キリスト教はイエス・キリストの仲介によって神と新しい契約が結ばれ、新しい神の民(教会)が成立したと説く。キリスト教は新しい「神の民」の形成という「歴史上の出来事」に神のはたらきを見たわけだ。キリスト教が共同体的だというのはそのような意味である。
ところで、マルクス主義はよくキリスト教的終末論の世俗化だといわれる。つまり内容はまるで違うけれども、ユダヤ教-キリスト教は本来、マルクス主義のように共同体的・歴史的なのである(実はマルクスがこの点でユダヤ教-キリスト教的なのだが)。キリスト教も近代以来、個人主義化しているが、本来は上記の意味で共同体的・歴史的であり、それはキリスト教神学の古典であるアウグスチヌスの『神の国』に見られる通りである。神学は神の民の歴史に即して構成されるわけだ。
仏教とのこうした差異は優劣の問題ではなく個性の違いだが、例えば社会は契約に基づいて成り立つというような、キリスト教的西欧に強く見られる共同体的・歴史的思考は、インド、中国、日本の伝統には希薄で、前者はなかなか馴染み難く、誤解も生むようである。