「契約」の意味 嘘の横行と社会の劣化
「契約」の起源は古いが、法的に見れば社会生活は広義の契約に基づいて成り立つ。契約とは当事者が意思を述べ合って合意を形成することで、契約が成立した場合、当事者は契約の内容となる義務を遂行しなくてはならない。結婚や就職、住宅の売買などでは文書による明示的な契約がなされるが、それがない場合も契約は社会生活の基本と見なされる。
交通機関の利用や商店での買い物、さらに旅行や飲食を楽しむ場合も当事者間で暗黙の契約がなされているというわけだ。そもそもこの世に生まれたら、国民の一員と認められて国家の保護を受ける代わりに「国法を守る」という契約が締結されたことになっている。
契約は衝突や争いを避けるための秩序だから、かつてのムラ社会のように、住民がお互いに知り合い基本的に好意を持って信用し合える場合には不要で、契約は「水くさい」と感じられる。つまり契約は知らない人同士が平和また安全に暮らすための約束である。
旧約聖書によれば古代ユダヤ民族は神と契約を結んだ(前13世紀)。ユダヤ人の祖先がエジプトから逃れてパレスチナに赴く途中、神がシナイ半島で顕現し「イスラエルの神」となったという。神との関係成立は歴史上の事件とされる。いつか分からない昔から「神」である「氏神」とは違う。「ある時に現れた神との契約」は日本人には馴染みが薄い。ただ、イエスの神観では神は初めから世界と人間の神であり、契約思想はない。神との新しい契約を説く「新約聖書」は、イエスとは違う神観を示しているといえる。
西洋近世の社会契約説はこうした「契約」のいわば世俗化で、見知らぬ人同士の争いを避けるために契約により国家が人為的につくられるという。この説は近代社会の基本となった。社会生活で結ばれる諸「契約」の場合、信用が不可欠である。信用できない相手と契約は結べない。信用がなければ法も貨幣も言葉も通用しない。
現代社会では嘘が横行する。政治家の嘘があり、悪徳商法があり、庶民の嘘もある。宗教はどうだろう。「人を見たら泥棒と思え」という諺があったが、今では「電話機が鳴ったら詐欺と思え」がほとんど実情になっている。誰でもが社会に発信できる現在、「嘘をついてはいけない」は過去に増して基本的な倫理だ。嘘はコミュニケーションのネットワークを攪乱し社会の正常な運営を不可能にする。世の中が劣化しているという印象が一般化しているが、これは嘘の横行のせいではないか。