コロナで揺らぐいのち 「命の選別」に宗教者は
コロナ禍の拡大で重症患者向けの病床が逼迫し、高齢で基礎疾患のある患者への人工呼吸器などの使用を断念せざるを得ないという医師の衝撃的な証言が報道される。感染が激化する欧州では既に治療の期待効果によって患者を振り分けるトリアージが行われているという。究極の「命の選別」の一つだが、社会が疫病に揺らぐこのような状況でこそ“いのちの専門家”たる宗教者には明確な姿勢を示す役割があるだろう。
トリアージは「助かる見込み」が大きいかどうかで選別するが、実際にはより長く生きられるなど「助ける価値や値打ち」があるかどうかとほとんど区別はできず、それは役に立つかどうかで命を選別し、例えば障がい者を抹殺するような優生思想と根本的にはどこかでつながるとの指摘がある。大事故や災害の現場では以前からトリアージが実施されているが、社会的にあまり問題にならないのは、「明日は我が身」の心配が濃厚なコロナ禍と違って、どこか「よその事」に見られるからだ。
しかし、国からの支えが決定的に不足する医療現場で少ない治療資源よりも重症患者が多くなった場合、実際に「選択」を迫られる。そこでどうするか。「緊急避難」概念が持ち出されるが、それはその行為によって侵害される法益よりも守られる法益の方が大きい、つまり同様の比較衡量の発想だ。
ここで倫理学の「トロッコ問題」が想起される。暴走するトロッコの進路上に分岐ポイントがあり、片方の先には5人もう一方には1人の作業員がいる。ポイント操作でどちらを救いどちらを犠牲にするかという問いだ。「ポイントをニュートラル状態にしてトロッコを脱線させ両方を救う」との回答はあくまで空想の世界。現実のコロナ病床でいかなる選択があるのか。「命の価値」によるのではなく「その患者への思い」で選んでしまうかもしれないと“究極の訴え”をする医師もいる。
選別の公的基準を示すべきだとの意見もあるが、それは「安楽死」法制化と同様、「生きる価値」が少ないと見なされた人を切り捨てる“客観的線引き”として独り歩きする危険性を持ち、現に高齢者や障がい者から「感染したら見捨てられる」との不安の声がある。問題の根本は“トロッコの暴走”を招いた日本の脆弱で営利優先の医療体制、また経済主導で例えば巨額の防衛費を計上しながら医療への手厚い対処がない政策の欠陥だ。選択に追い詰められる医療者、そして何よりも治療を受けられず諦めざるを得ない患者が出ないよう対応が求められている。