無責任の時代 権力へのチェックの重要性
政治家がその地位にふさわしくない行動・発言をする例が多い。東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長は日本の元総理大臣である。その森会長が日本オリンピック委員会の会合で、「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」と発言して、女性への偏見を世界中にさらした。
オリンピック憲章には「男女平等の原則を実践するため、あらゆるレベルと組織において、スポーツにおける女性の地位向上を促進し支援する」とある。東京五輪・パラリンピック大会開催の最高責任者の発言として、とても許容できるものではない。「お詫び」の会見を見ても、そのことがどうも分かっていないように見える。
その前には、コロナ感染症で病床が逼迫し、国民には夜の外出を慎むように要請し、多くの飲食店が閉業を余儀なくされ、法的な処罰規定を設けようとしている状況で、与党である自民党や公明党の衆議院議員4人が銀座の高級クラブを訪れたことが発覚した。役職辞任は言わずもがなだが、公明党の議員は議員辞職に至った。
自民党の議員は党籍離脱をしたが、党には責任が及ばないようにするということなのだろうか。自民党に都合が良いことであるのは分かるが、国民に対しての責任を意識しているのか疑われる。その地位にふさわしくない行動・発言ということを、高位にあるつまり責任ある政治家本人が理解できていない。それでも許容されてしまう。そのためにこのようなことが相次いで起こるのだ。
他方、責任ある行為をすべく日々自覚を新たにしている市民がいる。それぞれの立場で、組織や顧客や友人や家族に責任を負い、自らの地位にふさわしい行動・発言をしようと努めている。個々人が他者に責任を負うことへの自覚がますます求められる社会になっている。ところが、政治家やそれぞれの領域で高い地位にある者がそれを自覚できないで批判を受ける、ということが目立つ社会だ。日本に限ったことではない。権力を持つ者が、権力を行使することへのチェックが働きにくい社会になっているのではないか。
東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森会長の見識不足は前世代の遺物のように捉えられており、確かにその一面がある。だが、同時に大国の政治指導者の恣意や不見識が露呈しながら、なお権力が維持される現代世界の新たな問題としても捉えなくてはならないだろう。政府にも小さな組織にも見られる、新たな権力集中による無責任の時代という一面もある。脚下照顧すべき時だ。