文化庁見解の波紋 宗教法人の活動と社会貢献
災害時の支援や福祉活動など宗教法人による「社会貢献活動」を宗教活動として解釈することが可能、とする文化庁宗務課の「事務連絡」見解が波紋を広げている。これまで社会の様々な分野で取り組みをしてきた宗教者たちにとってはある種の援護となる一方で、宗教法人の主体性、あるいは宗教活動の内実について改めて認識を高める必要がある。
この見解は、日本宗教連盟が実際の法人の社会貢献活動について質問したのに回答したもの。例えば災害備蓄品の保管といった活動で寺の境内地など宗教施設の一部を使う場合に、底地が固定資産税課税対象となるような事態が避けられるとみられる。宗教の社会貢献についての研究が多く、文化庁にも意見を提出した稲場圭信・大阪大大学院教授(宗教学)は「いろんな課題に向き合ってきた多くの宗教者、宗教法人が勝ち取った成果だ」と評価する。
確かに文化庁の見解には、阪神・淡路大震災以降に災害での炊き出しや瓦礫撤去などの支援について「そのどこに宗教性があるのか」との言葉を投げ掛けてきた一部の宗教者や関係者の意識を追い越すものがある。ただ半面で、既に各方面で多くの実績を上げている貢献活動を、今さらこのように総体として国家に“認知してもらう”ことの両義性も考える必要がある。個々の活動が該当するかどうかの判断は宗教法人の判断に委ねられると「連絡」にも述べられているとはいえ、全体として国の“お墨付き”が得られたものが「宗教活動」であるというような方向になれば本末転倒だ。
これで「認められたから、さあ始めよう」といった動きが出るなら情けない。また活動の表面だけを見て、子ども食堂や介護カフェなど特定の取り組みをすることが宗教法人として当然の義務だという一種の同調圧力になるとすれば問題もあるだろう。社会福祉政策が貧困なまま最近とみに「自助、共助」をより強調する政府に、足りない「公助」を補完する「共助」のセクターとして宗教法人を都合よく位置付けようとする思惑があるとすれば、警戒が必要だ。
社会の苦に向き合わない宗教者、宗教法人は現実の人間社会への責任を果たしていないということは言える。ただ社会的活動は、法令で決められたり誰かに許されたからするのでも押し付けられてするものでもない。もちろんそのことが「しない理由」にされては意味がないが、信仰に基づき自発的にするからこそ、そこに宗教性があり深い意味で宗教活動と言えるのではないか。