東日本大震災10年 宗教者の支援の立場性とは
東日本大震災と原発事故発生から来月で10年になる。被災地では今なお苦難と悲嘆に苛まれる人々が多い。日本を揺るがせた空前の災厄に今後も向き合い続けるには、宗教者にいかなる立場性が求められるのだろうか。
被災地では様々な支援を続ける宗教者が数多い。例えば、被災によって貧困が拡大したのを受けて「子ども食堂」を運営する岩手県の浄土宗寺院住職は「凡夫だから弱い者同士で助け合う。そこにいるから住職です」と言い、地域復興の事業や悩み事相談などに奔走する同県の日蓮宗住職は「寺は檀家だけでなく地域に認められてこそ存在意義がある」と、同宗で言う「給仕第一」を指針に挙げる。
また宮城県でボランティアセンターを開設して多彩な取り組みをする曹洞宗の住職は「体でぶつかって人の痛みを知ることしか分からない。これが仏様の仰ることなのだと。そのことで皆が幸せになれば結果的にそれが仏教につながる」と述懐。いろんな催しなどを通じて復興途上の住民の心を支える同県の別の曹洞宗住職は「あえて言えば四摂法、菩薩行です」と話し、「自未得度先度他」の姿勢を重視する。
いずれもその支援の行いが自らの修行であると意識されており、福島県で避難生活者のケアに通う真宗僧侶の場合は「阿弥陀様に背中を押されている」と表現する。これらに共通するのは、「共苦」に基づく行いがまずあり、それを結果として表現すれば教えに関連する言葉になるという点に、「おしゃべり」ではなく真に身に付いた信仰に基づく宗教性が見られるということだろう。
現地に根を張る宗教者とは違って他所から被災地に赴く、あるいは離れた場所から支え続ける場合でも根本姿勢は同じであろう。例えばボランティアが「自分のような者が役に立つのか」と逡巡するのは「周囲からの目を気にする自己愛」だとの専門家の指摘もあるが、10年を経ても被災地では助けの手がいくらでも必要だ。
スピリチュアルケアの専門家である関西の浄土宗僧侶は、大事故で娘を亡くして悲嘆の底にある男性から「暗い海で救命胴衣もなく溺れているんだ。一緒に溺れてくれるのか」と言われたことがある。「一緒に溺れていると思い込まず、できないのを自覚しつつ、そこから痛みと共に居続けることが大事」と話す。水俣病患者に地元で関わり続けた作家・石牟礼道子さんは、何をしていいのか悩みながらも支援に加わる、あるいはただ一緒に苦しむ共苦を「もだえ加勢する」と表現した。