信頼性こそ生命線 SNS時代の宗教情報
若者の新聞離れが言われて久しい。10代の若者はほとんど新聞を読まない状態になってきた。先日、大学で講義をしている教員が、新聞を毎日読むかを学生に挙手させて聞いたところ、誰も手を挙げなかったという。100人以上が聴講していて、半分以上が1年生という講義での話である。
「宗教と社会」学会と國學院大学日本文化研究所が20年間実施した学生の宗教意識調査がある。1998年と99年には、日常的にニュースを知る手段として新聞を読むかを質問した。98年は6千人余、99年は1万1千人近くが回答して、それぞれ43・9%、42・5%という結果になった。この時点ではまだ4割以上が新聞を主たる情報源に加えていた。
20年余を経た現在、情報源としての新聞の地位は、若い世代の間では地に落ちたという表現が当てはまる。パソコンやスマートフォンでデジタル化された同内容の新聞記事を読む人はいるにしても、紙媒体は遠い存在になった。
21世紀になって何が起こったか。パソコンというよりスマホがこの状況を決定付けたと考えた方がいいだろう。手元で常に最新の情報が得られる環境は、新聞が持っていたニュース性の比重を相対的に低くした。10年後はどうなるか。紙媒体の新聞はその意義を改めて確認せざるを得ない。
新聞が若い世代に読まれなくなった理由の一つに、おそらくニュース伝達法の旧態依然さがある。例えば今回の選挙前の紙面を見ると、全国紙が候補者の当落予想のようなものを複数面を使って記載している。競馬の予想のような情報を若い世代が求めるであろうか。個々の候補者の主張やこれまでの活動を判断の材料として提供する記事がもっとあっていいのではないか。
最新の情報が得られるのは、ニュース提供の観点からは重要な要素である。同時に情報の信頼性も重要だ。この信頼性の面で、新しいメディアは非常な弱点をさらしている。最近の例では「Dappi」の問題がある。政権に都合の悪い人物あるいは情報を一斉に攻撃するツイートなどが、正体不明の集団で組織的になされていた事実が明らかになった。不思議なことに、この重要な問題を大手新聞もテレビもあまり報道しないが、情報の信頼性の意味では、新聞は他山の石とすべき事柄である。
宗教情報は、日本社会では興味本位で報道されるか敬遠される傾向だ。SNS時代であればこその宗教専門紙の役割がここにある。新しいデジタルメディアとの連携も含め取り組むべき課題だ。