持続可能な社会 「変革」を促す宗教の役割
地球社会が未来に向け発展を続けるには、先進国であれ途上国であれ一人一人の命が尊重され、広がる貧富の格差、気候変動や生物多様性の喪失などの困難な問題に向き合っていかねばならない。「誰一人取り残さない」を掲げるSDGs(持続可能な開発目標)は、その処方箋ともいえるが、実はちょうど50年前の1972年にも地球の資源や環境の有限性から人類の危機を警告したローマ・クラブの有名な『成長の限界』が発表され、反響を呼んだ。
それから半世紀後の結果を見れば、世界は警告に聞く耳を持たなかったと言わざるを得ない。
仏教では「非常の言(ことば)は、常人の耳に入らず」という。人は目先の利益や利便性に執着して煩悩に明け暮れていると、真実を説く仏の教えが届かない。災害心理学などでいう「正常性バイアス」を連想する。災害などの不都合なことは過小評価や無視しがちな人間の習性を意味する言葉である。いずれもその先には、不幸な結末が待ち受けている。
SDGsもその理想に反し、新型コロナ禍の渦中で先進国と途上国のワクチン接種率に極端な開きが生じ、貧富の格差も一段と拡大した。はるかな目標に到達するまで険しい難路が控えていそうだ。
SDGsの理念は要するに、人類が欲望を抑えなければ地球は破滅する、に尽きる。ここでも仏教の「少欲知足」が浮かぶ。今の時代、自然の懐に抱かれて生きとし生けるものとの共生を良しとする日本古来の思想は見直されていい。仏教界でSDGsに取り組む機運の高まりには理由があるといえよう。ただ、国連で採択されたSDGsを含む「2030アジェンダ」(略称)のキーワードは「変革」だ。世に災いを招く理不尽を正すには変革する意思と行動が要る。例えば災害を考えてみる。
17日で27年になる阪神・淡路大震災は近代都市の直下で起きた初の災害だった。以後頻発する大災害を見ても、科学技術が発達するほど態様は複雑化し、規模も人災的側面も大きくなり、被害は弱者に偏る。そして人災の要素が強まるほど被災者は心に深い苦痛を刻む。その不条理さに踏み込まないと持続可能な社会は望めない。
安全の対義語は利潤、というジョークがあるが、人災は突き詰めれば人間の強欲が根源にあるといえる。もとよりそれは災害に限ることではなく、社会を変革に導くには人の心にライフスタイルを変えるほど強い動機づけが求められる。今の世でその力を期待できるのは、宗教以外にあるだろうか。