いのちが揺らぐ社会 細かい支えと大きな視点
今年は西日本豪雨から4年、熊本地震と津久井やまゆり園事件から6年、東日本大震災から11年、秋葉原事件から14年、阪神・淡路大震災から27年……。悲惨な出来事に“節目”などはなく、人々の困窮と悲嘆に終点はない。東北の被災地では、行政的支援策の終了で「復興」に取り残される被災者が将来を見通すことが困難になり、原発事故の影響で故郷に帰ることすらできない被害者が多数いる。
コロナ禍は3年目に入り、社会への構造的な重圧になっている。医療資源不足によって多くの人命が脅かされ、現場ではトリアージという名の“いのちの選別”が進んで、世間全体の生命に対する見方にまで暗い影を落とす。経済危機によって職を失い貧困化する人の数は増え、自死の増加にもつながっている。感染者数の増減にかかわらず、いのちの揺らぎは深刻化していると言わざるを得ない。
このような社会では困難な境遇にある人々への支え、いのちへの寄り添いがますます重要になるが、いろんな立場の人たちが行動しながらその意味を深く論議し、追求することは大変有意義だ。「いのちの専門家」である宗教者もまた、人を支援するとはどういうことかを考えることが多くなるだろう。
昨年来、相次いで出版された『ケアとは何か』(中公新書)、『見捨てられる〈いのち〉を考える』(晶文社)、『〈反延命〉主義の時代』(現代書館)といった書籍が注目され、各地でケアや支援に関わる人たちによる研究会が開かれた。いずれもが、この社会で「役に立つか立たないか」などもろもろの状況でいのちに軽重が付けられるような傾向に対し、「人間の弱さを肯定し、支え合って生きる」ことこそがケアだと訴える。
また各地で相次ぐ野宿者襲撃・殺害事件を受けて、ホームレス支援の現場からの報告をはじめとする貧困問題の勉強会もリモートで続けられた。そこでも、地域の子供たちによる夜回りと弁当配布の活動などから、生きることの尊さ、いのちの重さを学び、互いに尊重し合うことの重要性が語られた。
そこで浮かび上がったのが、苦難にある人一人一人に寄り添う「小さな神々」と、そのような苦を生み出す社会構造自体に向き合う「大きな物語」との調和・両立の重要性と困難さだ。人々の個別具体的な《小さな願い》に無関心な《大きな絵》は空疎な論に陥りがちだが、その願いを支えるために場合によっては社会の仕組みを変革する必要があることも自明だ。苦の現場で答えの模索が続く。